無意識を無意識に具現したものの違いを考える

ずいぶん昔約30年前私は大学生であった。
英文学を勉強していたはずだけど
何を勉強していたのやらという
まったくしっかりしてない学生だった。



その割に
英文学の中で勉強したことを
ふつふつと思いだすことがある。



私は16世紀から17世紀の詩を主に
勉強してきたわけだけれども、
その中で多分、ミルトンのparadise lost
か何かの関係で
庭について調べたことがあった。



日本の庭にはみどりの苔むす地面のところどころに
飛び石が置いてあり、そこをわたって庭をすすむなんていうのが
多い。



それは、日本人が昔海洋民族で
海にポカンポカンとうかぶ島をみて
とても安堵し、そこをわたっていくという
行為を象徴したものだとあったのを覚えている。



そして
スペイン人の庭、
イギリス人の庭
と説明があったように思う。



確か
イタリアの庭は
グロットの説明がしてあったように思う。
熱く乾燥した土地で
ふと見つけた小さな洞穴に安堵する象徴として
人口のグロットを作ったように書いてあったように思う。
噴水についての記述もあったように思う。



庭つくりをする人間の心理って
本当に面白いなぁ
と思った。
無意識を無意識のまま
具現する庭。




私たち日本人は
みどりの木陰で
飛び石をたどって
庭の奥へと進む時
わたってきた島々を
無意識の中で
確認し幸せな気持ちになるらしい
という不思議。





さて、
アメリカ人の庭はどうだろう。
庭といえば、みどりの芝生。
だーっと続く。
あまり花など植えない。




開拓民が自分の故郷(英国)の芝を
心のふるさとにしたからなのか。
はたまた
故郷の国を捨て
大西洋を渡って
みどりの平原を夢見てきたからか。



荒れた土地の中で思い出す
イギリスのみどりなす土地。
あるいは
心の中のユートピア
果てしなく広がる緑の大地。

激しい大陸の天候の中にあって、
柵の中で自分流に飼いならしておきたい
美しく手入れされたみどりの大地。
これが彼らの幸せの象徴ではなかったのだろうか。


そしてその
自分流に飼いならされ、てなづけられた自然の中で
アメリカ人が楽しむのはバーベキューである。


もう、無意識から飛び出して本能までいく。



飛び石などない。
芝生の上を裸足であるく
そしてそこで皆で肉をあぶって食べるための
そのための芝生なのだ。
そのための庭なのだ。