自由


自由の国と言われるアメリカに住んでいて、
日本人の思う『自由』と
アメリカの『自由』には微妙なズレ、
『自由』ということの意味に
違いを感じることがある。



多くのアメリカ人は
『自由』とは
手に入れるものだと考えていると思う。


私の知っている限りでは
アメリカの子供達は
赤ちゃんの頃から
犬猫のように有無を言わさず
小さいときに、しっかりとかなり厳しくしつけられる。



やってはいけないことが大変多い。



だから
スーパーなどで走り回っている子は
いない。
レストランでテーブルを離れてうろうろする子は
いない。


家の中には子供達が
入ってはいけない部屋や場所が
作ってある場合が多い。


親の権威は絶対である。


一つ、一つルールがあって、それを守らないと
生きていかれない位の厳しさで
しつけられる。



そして、だんだんと年が大きくなるにつけ、
「◯◯ができるようになったから
◯◯をすることをゆるしましょう。
そのかわり、その約束をして破ったら
◯◯はまたできなくなるのですよ。」
などと少しづつ『自由』を子供達が
獲得していくのである。



アメリカの教育は褒めて伸ばす教育であると
言われるのは、このように
最初に『自由』が全くないので
その『自由』を本人がある条件と引き換えに手に入れることができるよう、
褒めて、伸ばして、
少しづつ子供が『自由』を獲得していくのを
勇気づけているからという側面も大いにあると思う。


大学生の時
音学の授業でフランスからきた神父さまが教えてくれた
『自由』の話を思い出す。
彼の名前は確かメルオー神父だったと思う。



「『自由』と『めちゃくちゃ』は全く違います。」
といって、大きな体のせいでなんだか小さく見えてしまう
グランドピアノで
バッハ、モーツアルトショパンガーシュイン、ジャズ、シャンソン、日本の歌謡曲を美しく、楽しくひいたあとで、
「これが『自由』です。『めちゃくちゃ』に演奏することは
誰にでもできますが、『自由』に演奏することは、地道な練習を
重ねて努力しないとできません。人生もまた一緒です。」


西洋人が『自由』を獲得するのは簡単なことではないのだ。


翻って日本では
小さい子どもの頃から、
かなりの『自由』を与えられている。
それは、じつは『自由』というより、
規律のある前の状態であり
西洋人からすると
『めちゃくちゃ』というものかもしれない。



しかし、その『めちゃくちゃ』を私たち日本人は
規律などなくても
空気を読みながら
みんなと合わせることを自然とやっていきながら
『自由』に近いものにしていると思う。




そして日本では
子供たちがある程度大きくなり、ものごころついて
色々なことが理解できるようになってから
少しづつ
やってはいけないこと
や大人のルールを教えていくことが
多いと思う。



だから、
叱る教育、悪いところを指摘する教育になるんだと思う。



日本では
『自由』はもともとあるものなので、
獲得していくといういようりは
何かによってそれを
それを奪われていくという感覚になることが
多いのではないだろうか。



そして、
何もルールがなくても
自然とうまくその場にいるものと
調和していく状態を
『自由』とよぶように思う。


日本の『自由』とアメリカの『自由』は
はっきりとした規律はないが、
和らがなくくりがある自由
はっきりとした規律があるが、
それ以外はくくりがない自由
ともいえるかもしれない。





私はここで、どちらの『自由』がよりすぐれているか
という話がしたい訳ではない。



日本、アメリカという枠を超えて
世界で
もっと『自由』に生きて行くには、
『自由』といえども
それぞれの地域の文化の上にたっているものだ
ということをよく考えることが
大切だ
と言いたいのである。