自分をかけてアホな意見でも言おう

下の息子がPCを見ながら
「なんか、日本人の意見って極端なのが多いな。」
と言う。




ずーっと我慢して決死の覚悟の「一揆

あるいは、

黙って見ていていきなりの「この葵のご紋が目に入らぬかぁ!」


このようなアプローチが日本では多いのではないだろうか。


だから
その意見も
「壊してしまえ」
または
「言うことを聞け」
と極端に走っちゃうのではないかな。




日本人は「場」をとても大事にするので
最後の最後までどうにか今の状態を保とうと
丸く納めようとする力が強く働く。


この段階で「議論」にはならない。
この段階では「空気を読む」ことが重視される。


そしてその場を丸く納める力がぎりぎりまで働いて
その結界を超えると、


いきなり
お上に反抗する「一揆」的行動にはしるように思われる。



またお上側からは、
急に「これに従え」という0トレランス型の指導になりやすい。



このぎりぎりまで働く丸く納めようとするときに重視される
「空気を読む」力は
「自分」を限りなく無くす方向に働く。


「空気を読む」力は
いろんな要素を把握し、全体の流れを探る方向に働く。



そこにはあまり論理的思考はない。



なぜなら客観的にみているだけでは
「自分」から発する責任が伴わないので
深い論議にならないからだ。


似たようなことを前に書いた。http://d.hatena.ne.jp/oba3inUS/20100426/1272244702
議論をしていくことは、日本人には面倒くさいことなのだ。


でも
「自分」をかけて色々と説得したり
妥協したり、主張したりしていく過程で
論理に磨きがかかる。

そのように磨きがかかった意見と意見をぶつけると
あらゆる盲点、弱点もあぶりだされて
結局一番よい「意見」を選ぶことができる。



一方
「自分」から発する責任をとらずに
全体の流れを探り、
その流れに乗るだけではなく、
その流れを自分の方向に変えたいと思う時、
一番手っ取り早いのは
実は感情に訴えることだと思う。




感情は
頭脳というより本能に訴えるので
それだけインパクトが強い。


よって感情を利用すると全体の流れが
情緒によって一気に変わり、
しかも奔流する時がある。


そこへ引っ張って行った力は
論理的に磨かれた判断ではなく
感情を元にした奔流である。


日本のマスコミはこれが得意だと思う。




このような感情の奔流には
リーダーもいないし、
責任もない。





この奔流に飲み込まれない一番良い方法は
「場」を丸く納めようとしないで
「自分」をかけて
なにかしら意見を言っていくことだと思う。



恥ずかしい意見でも
浅い知識を露呈するような考えでも
失礼な言い方になっても
自分をかけてアホな意見でも言おう。
このブログだって正しくそういう事だ。


でもさ、そこから
全てが始まると思うんだ。