「どんより」について考えたこと

今日は体も心も重く「どんより」している。一日家にいて、大した家事もせずに、DVD見たり音楽を聴いたり、本をよんだりしている。その割にすっきり感はなく、「どんより」感が体の芯にたまっている。これは心の疲れの本質か。

そういう「どんより」がたまる日は、天気もだいたい「どんより」している。今日も雪がふる、雪がふると言いつつ、降らないでなんだか「どんより」と重たい空だ。

これと反対に、お掃除または運動の神々が降臨され、どんどん掃除や運動がしたくなるような体も心も軽い日がある。こういった日はだいたい天気がパーっと明るい日が多い。

こんな風に、人の心と体は密接にお天気に結びついていると思う。

「どんより」がいけないことばかりではないと思うのは、文明が栄えたところはある程度高緯度の地域であり、天気がいつもよいところではない事が多いからだ。「どんより」というのは、人間の精神の表層ではなく深層に作用して、文明を生み出す力になってきたところもあるのではと思う。

しかし「どんより」が多いと、それに慣れてしまって、そこから抜け出しにくくなってしまうという難点がある。お天気やお昼夜にかかわらず、自ら「どんより」状態を作り出し、それに浸りたくなるのだ。それは、かなり人間の社会生活に支障を下す厄介な状態だ。

そういう長期「どんより」は昼夜逆転現象を起こす。これは現代にでてきた現象かとわたしは思っていた。電気が発明される前のろうそくやランプの時代には、そういう現象はないものでは、と勝手に想像していた。

しかし、この間、シェイクスピアロミオとジュリエットを読み返していたら、最初の出だし、ロミオのキャラクター導入あたりに、ロミオの生活は昼夜逆転しており、朝方になると分厚いカーテンを引いて、自室にこもり、自ら夜を創り出しているとの記述があった。ランプの時代でもそういうことがあったのかと驚いた。

そうならばきっと人間はいつの時代も「どんより」を味わいつつ、抗って成長してきたに違いない。原始時代から雨の日の洞窟とかで「どんより」しながら、絵を描いたり何かを考えたりしたことが人間を人間たらしめたんではなかろうか。そしてお日様がカーッ照っていても、洞窟の奥深くに寝そべっていたりした人間も少なからずいたのではないだろうか。そういう陰のエネルギーは命にかかわるエネルギーのような気がする。そのエネルギーをため込み、明日へと昇華させていくのが「どんより」の使命かもしれない。

とりあえずわたしの今日の「どんより」は今日中には回復せず、今晩の惰眠へとまずは移行し、それらが明日への希望へと昇華されるようにたっぷりと夢を見ることが必要な気がする。

心の疲れをとるってこういうことか。