嵐の一週間

先週のことである。
日本から教え子が大学生になって、友達を連れて我が家を訪ねてくれた。
金曜日の夜について、その日は、天ブラうどんなど簡単な夕食をとった。
翌朝早くにマンハッタンツアーに出かけて行くのを小雨のグリニッチ駅で見送った。
stormが来るという予報がでていた。
この嵐は非常にゆっくりすすむので、土曜日から火曜日くらいまで雨の予報だった。
一時、暴風が吹くという予報が出ていたが、強風に変わっていたので
少し安心した。



おいしいアメリカのアイスクリームやお肉、新鮮なムール貝などを買い込んで
彼女たちの帰りを待つことにした。
家もきれいにしたいので、雑貨屋さんによったり夫とワインを物色したりと
ごく平均的な雨の土曜日だった。


雨風がひどかったので、マンハッタンの彼女たちを想い、初めてのNYシティが
雨で、しかも自由の女神の島はきっと海風も吹きつけているだろうから
大丈夫だろうか、とても気の毒だなぁと思っていた。


その彼女たちから、6時半にグリニッチ駅に着くと言う連絡をもらった。
このころにはもうかなり雨風が殴りつけるような降り方に変わっていた。
家を車で出た瞬間に辺りがぱっと暗くなったので、停電した、と思った。

駅でびしょぬれの彼女たちを迎えた。
夫からすぐ連絡があり、ろうそくと懐中電灯がほしいとのことだった。
また塾で勉強していた息子も早く引き取りにいくようにと言われた。
ご飯も何か出来合いのものを買ってくるようにと頼まれた。
我が家のコンロは電気なので使えないのである。



すぐにろうそくと懐中電灯を買いに近くのスーパーに行った。
2件道を挟んでスーパーが並んでいるのだが、そのうち一軒しか明るくない。
明るいほうの店で電池と懐中電灯を購入。懐中電灯は最後の一本だった。
ろうそくも買った。
ろうそくを買っているときに、アメリカ人のカップルが
ろうそくの前でキスをし始めた。


バスケットにマッチやろうそくがいっぱい入っているので
きっとこの人たちも停電したんだ、と思った。
でもろうそくとうアイテムで急にロマンチックスイッチが
入ったのか、かなり長いキスをしていた。
ろうそくが買いにくかった。

塾に息子を迎えにいった。
みな勉強していて、停電が起きたというと
大変ですね、などと同情的だった。
このころは、まだ子どもたちや塾の先生にも危機感はなかった。


帰りにボストンマーケットというチキン丸焼きお惣菜やさんに
行こうと車を走らせていたら、ルート1という幹線道路が
封鎖されている。わき道を通ろうとしたら、巨木が何本も倒れており、
救急車がやってきてUターンするように言われ、ボストンマーケットを
あきらめて、自宅近辺のウェンディーズというハンバーガー屋さんに向かった。



このあたりでも案外楽天的な私は元生徒に
「このあたりの電柱はみんな木なので結構倒れて停電になるのよ。
まあ、ひどい時には3日くらいつかないかしら。今回はどうかしらね。」
などと余裕だった。



ハンバーガーを持って自宅に帰りろうそくの火で食べた。
半分溶けかかったドロドロのハーゲンダッツもそれなりに美味しかった。
薪を焚いて暖をとった。ガスの種火も電気なのでもうつかないだろう。
びしょぬれの彼女たちになんとかお風呂かシャワーを浴びさせてあげたいと思った。
窓の外では風が不気味な唸り声をあげている。
時々閃光が夜空を照らす。稲光だけがして、音が聞こえない。
後でわかったことだが、これは稲光ではなく、
高圧線が切れてショートし、火花が散って明るくなっていたのである。



翌日も雨。隣町に住む古いアメリカ人の友人に携帯から、
電話をしてシャワーを貸してもらった。
そのお宅では親戚に不幸があり、デラウエアに出かけた後だった。
私たちのためにカギを開けておいてくれた。その親切にびっくりし、感謝した。
また、翌日旅行に出かけられるという日本人宅でカセットコンロを貸していただいた。
これでなんとか料理ができそうである。


日本から来てくれた彼女たちに、
地元をあちこち案内しようと思うが、
山道のほうを車で走るとどこも巨木が倒れていて
いけない。電線がぶらぶらぶら下がっている下を通る。
まるでディズニーのアトラクションに乗っているようだった。
片道一車線になっているし、信号はほとんどついていないし
車の運転がこわかった。
どの道も封鎖になったり、倒木が転がったりしているので
これは、今までにないことだと確信した。


家に帰ると夫が電力会社は今晩の11時に復帰すると言っているという。
私は、あれだけの数の木が倒れているのを実際にみたばかりなので
3日は電気がつかないような気がすると思った。
夫は電力会社の人にその回復情報はどこまで正確なのかと尋ねたところ
だいたいは合っているという答えだったという。
冷蔵庫の中のひき肉を使ってカセットコンロでハンバーグを焼いた。
焼き加減がろうそくでよく見えなかった。
ムール貝など生ものは捨てた。
アイスクリームも全部捨てた。


夫が薪がたりないといって、薪を買ってきてくれた。
隣町の奥に薪をあと150本ためてあるが、そのお店は休みだったので
近くのガソリンスタンドでガソリンを入れた後、スタンドで薪を購入。
また、電池で聴けるラジオも購入してきた。
ラジオでは、グリニッチでも死者が一人出たことを告げていた。


暖炉では家全体が暖まらず、みんなで暖炉の前に移動。
ウノやドボンのカードゲームをしたあと、早めに寝ることにした。
夫は深夜に電気が回復してから日本出張前の準備の仕事をするので
しばらく待ってみると暖炉の前でワインを傾けている。


その日の深夜、枕元に夫がたち、
やはり11時には電気回復せず、今度の回復情報では
木曜日の午後まで停電すると電力会社が言っていると言う。
ホテルに移動するべきかどうか
考えねばならなかったが、犬もいるしどうしたことか
とあれこれ考えいるうちにまた寝てしまう私であった。


翌日の月曜日も雨がつづく。
その中、夫と大学生の彼女たちはマンハッタンに出かけた。
息子は薪からの煙で喘息になってしまった。
夫から頼まれて、隣町まで雨の中50本の薪をもらいに行った。
またコンタクトレンズも日本出張前にほしいとの事だったので
携帯で医者が空いていることを確認して、眼科に行った。
眼科へいく道でも沢山の木が倒れていた。

グリニッチの友人全てに電話してみたが、
一軒もつながらなかった。
携帯電話でようやく一人とつながった。
そこの家では、ドライブウェイに
木が倒れこみ、車が出せない状態だと言う。



ぐったりしてチアノーゼ気味になってきた息子を連れ
今度はかかりつけの日本の先生のいらっしゃる病院に行った。
かなり症状が重くなってしまったようで
強い薬を出してもらった。
薪はあまり焚かない方がいいし、
暖かいところで寝かせてあげた方がいい
と言われた。
ホテルへの移動を真剣に考える。


病院の先生の話によると、
先生はご自宅まで、道があらゆるところで
通行止めになりご帰宅できなかったらしい。
家族で看護師さんのところでお世話になっていると聞いた。
みな大変だ。

しかし我が家ではお湯が出ることが判明した。
お昼の内にいろいろと家事をこなす。


塾の先生に頼んで、携帯電話を充電させてもらう。
携帯だけが頼りになった。


ハリソンという隣町で停電になっている方が
カレーを作ったのでどうぞと暖かいお申し出があった。
ぐったりした息子を連れて伺った。


楽天的で能天気な私も3日目になるとこの生活に疲れを覚え、
どうしても暖かいところへいったん避難したいという気持ちが
息苦しそうな息子の可哀そうな青い顔を見るたびに高まった。


この日は、夫は接待だったので、
喘息の息子を家に寝かせたまま
夕方MOMA見学を楽しんだ彼女たちと
アジア料理を食べに行った。
9時過ぎに冷え込んだ我が家に帰宅した。


夫と相談をして、
マンハッタンのホテルを17日の晩一晩だけ泊まろう
と言うことになった。
なぜなら、電気会社の電気回復情報では
18日にならないと電気が回復しないことが判明したからだ。
しかし
17日はセントパトリックデイで意外と高い。
いろんなことを考えて、
2ベッドルームのスウィートをとってもらうことにした。
明るい気分になった。


火曜日は一転して晴れて暖かい日になった。
ほうきで掃除した。
お日様が出ているとはなんと素晴らしいことか。

大学生たちは、この日はNatural History 博物館に行った。
5番街からセントラルパークを抜けていったので
往復二万歩あるいたそうだ。


夕方、グリニッチのお友達で電気が回復したおうちがあり、
そこの方が夫を除いた4人を晩御飯に招待してくれた。
夫はこの日も送別会で遅くなるとのことだった。

友人の暖かいおうちに入ると、心も温かくなった。
息子の青白い顔も一気に明るくなった。
本当に感謝してもしきれないくらいありがたかった。
そこのお宅にはたくさんの子どもが来ていた。

まだ停電している家のお子さんを面倒見ている。
自分も大変な時になかなかできないことである。
ゆっくりさせていただいた後、自宅に戻るべく車に乗り込んだ。


後一晩、寒い中をろうそくと懐中電灯で過ごすのか、、と
覚悟しながら自宅に着くと、我が家に灯りがともっていた。
車の中で歓声が起こった。


ちょっと楽しみにしていたマンハッタンのホテルもキャンセルをした。
電話とネットが通じたのが、木曜日。
今日は約一週間ぶりのPCである。
しかし
まだテレビはつながっていない。





この嵐で、死者は合計11人。
停電は二十万世帯。
グリニッチの町で倒れた巨木は700本。


日本だったらもっと大騒ぎになりそうだが、
そこは明るくお役所を頼らず
自分たちで切り開くアメリカ人気質が幸いして
みな何気なく乗り越えている。
銀行マンのアメリカ人のご主人もチェーンソーを
片手に倒れた木を切りまくり、道をあけたりしているのだ。
何だかたくましい。
自宅にジェネレーター(自家発電機)をつけている家も多い。
自分たちで危機を乗り越える覚悟が日本人と違う。
政府を当てにしていない。

やはりろうそくを買いながら
キスするくらいの余裕がなければやっていけないような気がする。



我が家のフェンス
一部風で吹き飛ばされている








大家さんのドライブウェイに倒れた木
電線が挟まっているので、無断で切ったり、動かせない


ちなみに、大学生のお二人は、このサバイバル生活をアメリカ人並みに明るく乗り越えて
たくましくNYをエンジョイされたように思う。若く知的好奇心にあふれる彼女たちは美しい。


電気が戻った最後の日の17日には、セントパトリックデイのパレードを見てアメリカ人とハイファイヴしたと楽しそうに語ってくれた。そのあと、ミュージカルオペラ座の怪人を見たそうだ。その晩は久しぶりに我が家で食事をした。1インチフィレミニオンを焼いた。

アメリカの大きさ(大雑把さ)をまさしく体験されたことと思う。嵐のような一週間ではなく、文字通り、嵐の一週間だった。