自分にないものを持っている人

遺伝子的に、ドーパミン第四受容体の遺伝子内塩基配列の繰り返し数が多いほど「新奇探索傾向」が強く、セロトニンが少ないと「損害回避傾向」が強まる。(スタンフォード集中講義の本より)


という文を読んだ。
つまり
新規事業へ乗り出していくタイプの人と
既存事業をしっかり守ろうというタイプの人と
遺伝子レベルである程度決まっているという説があるということだ。


自分は明らかに新規探索傾向が強いタイプだ。
だから、
細かいルールを守ったりすることや
あるいはそのような細かいルールがあること
それ自体に疑問を感じたりしてしまう。



自由で柔軟なやり方がすきなので
ある一つのやり方に固執したりするのは好きではない。
むしろいろいろなやり方を試してみたい。
そして新しいことや方法を考えるのが大好きだ。
そう、
ちょっと苦くても
味わったことがないものなら
食べてみようと思うタイプなのである。

また
100%を目指すとか考えられない。
完璧主義が理解できない。
60%から70%行けそうなら
もう発進してしまって
やりながら考えよう、
ダメならまたやり直せばいいだけ、とか思ってしまう。


人からのどう思われるかというより
自分が何をやってみたいかを優先させることが多い。
こらえ性がないとも言えるけど、
やりたいことに関しては
頑張ってしまう。




しかし
一つ一つ丁寧にダブルチェックして確認したりすることは
大変苦手である。
忘れ物もよくするし、勘違いもある。
飽きっぽいし、欲張って自滅することも多い。
精密さ巧緻性を求められると大変苦しい。
ダメなところをあげればきりがない。



それなのに、自分のダメなところは棚にあげて、
しっかり一つ一つ丁寧に見直しながら
そして周りを見ながら外れないように
すすんでいくタイプの人をみると、
なんだかまどろっこしく感じてしまう時がある。


細かいことをいう人や
かたいことをいう人、
すぐ欠点や悪いところに目が行く人について
否定的にとらえることがある。





しかし文頭の文章を読んで
遺伝子レベルである程度決まっている
この二つのタイプが
人類発祥から今まで共存している
そのことの意味を考えてみると、
そういう否定的なみかたは
まちがっていると思った。




二つのタイプ共存の意味は
人類はチームなんだなぁということである。


人類が一つのチームと考えると、
色々なタイプの人が必要であるという意味がわかりやすい。



攻めるのが好きな人も必要だが
今あるものを守る人も必要である。



この時代には、
攻めるタイプにならなければいけないとか
攻めも守りもできる人にならなければいけないとか
そういうことではない。



『人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論』に
「私たち人類は発生から
数百人単位の集団で暮らしてきたのではないか」
と書いてある。



私たちは、一人一人の能力で
一人一人がバラバラに生き延びられるようにではなく、
人類という集団が生き延びられるように作られているのだ。
集団として完成するひとつの大きな能力の一部を一人一人、
夫々が何かしら担っているのではないだろうか。


だから
能力のばらつきや偏り、
そして全く違うやり方を好む性質があったほうが
どんな局面に遭遇しても集団として生き延びていける。


そう考えると
苦手なタイプの人間を無理に好きになったり、
自分と違うタイプになろうと無理をする必要はないが、
どんなタイプの人も大切にしなければならない
ということが
よりよく納得できる。

  


『他人は、すべて、自分よりもアカンと思うよりも、他人は自分よりエライのだ、自分のないものをもっているのだ、と思う方が、結局はトクである。』(松下幸之助)