何かを本当に伝えたいとき(パート2)

中3になる息子が私が先に書いた『本当に何かを伝えたいとき』を読んで、「これ、上から目線な文。自分の正当性を疑わず若い人やお年寄りを見下している。」というような意見を言ってくれた。

読み返すと、なるほどそうだなと思う。


私が言いたかったのは、ただストレートにものをいってもうまく伝わらないことが多いということだ。それは日本という国柄と関係しているように思う。

日本は相手の事をお察しする文化があるので、なかなか本当のことを言いにくいところがあると思う。そして本音と建前のダブルスタンダードになってしまいやすい。丸く納めるとか、空気を読むとかが大事なのである。


また日本では、「アメリカではものをストレートにいうのが当たり前である。遠慮や配慮はしない国柄だ。」と思われている気がする。そして丸く納めるのが大事な日本国民も「ものをはっきりいう方がいい」という風に徐々になってきていると思う。


思えば石原知事がソニー盛田昭夫と共著で1989年に『NOといえる日本』を書いた辺りから、日本人も本音をバンバン言って自分を主張しないと損だという認識が広まってきたように思う。


しかしながら、日本人はあまりバンバン言って自分を主張するという文化がなかったせいか、その本音で自己主張するときに、なにか強く主張しすぎたり、いきなり相手にくってかかるようになってしまうことが多いように感じる。


電車が遅延したときとか、「どうしてくれるんだ!」などと駅員にいきり立って言っている人。自転車ですれ違ったりしたときに「どこ見てんだ、どけ」と怒鳴る人。スーパーの特売で品物がなくなってしまったときに、「どういう仕入れをしているんだ。店長を出せ。」と言っている人。この人たちは自分の怒りを表しているだけであって、建設的な反対意見を言っているわけではない。


また反対意見を正面から受け止めることにも慣れていないので、反対意見を言われただけで人格まで否定されたと感じる人も多い。そして対話をやめてしまう。そうかと思うと傷つきたくないが故に反対意見を述べた相手に猛然と反撃する人もいる。こうなってもやはり対話は成立しない。


反対意見や注意を相手に言ったり、それを言われたりするのがまだ少し下手なんじゃないかと思うのだ。

アメリカと一言でいっても、地理的にも広く、民族も多様であり、また階級社会でもある。だからアメリカではと言い切ることはできないが、日本人が思うようにアメリカはストレートにものをいう国柄ではないと私は思う。


特にアメリカ東部の比較的裕福な人は、あまりものをストレートには言わない。しかし、意見はしっかりと言う。彼らは相手に配慮をしながらうまく自分の意見をいうのがうまい。どうしたら相手に一番良く伝わるのかを考えて言う人が多い。また意見はたくさん出たほうが良いと思っているので反対意見や注意を受け止める余裕があるようにも思う。言われた意見を全部聞きいれる必要もないが、切り捨てる必要もない、要は自説がより良いものになればよいということをよく分かっているように思う。もちろん人によるし、アメリカではと一般化する訳にはいかないが、私の見知る限りでは、意見を言い合う文化というものがあるように思う。


ところが日本は意見を言い合う文化の歴史がまだ浅い。350年続いた江戸時代、その後また戦争時の隣組制度がよほど強烈だったのか、少し前までは意見をいう時にはある種の覚悟をきめて言ったのではないだろうか。意見をいう垣根が高い。だからちゃんとした意見でなくてはならないし、自分も意見をいうには清廉でなくてはいけないし、その上自分の立場がなくなるかもしれないという捨て身の覚悟でお上に申し立てるというのが意見の言い方だったと思う。


そしてそれから経済成長のピーク1980年代になった頃あたりから。もっと自分に正直にバンバン思ったことを言わないと自分が損をしてしまうという風潮が出てきたと思う。それは意見を出しやすくなったという意味ではよいことなんだけど、その言い方がまだ未熟な気がするのだ。


意見をいうときにはもう少し相手の立場、そしてタイミングも考えた上で、より良い方向に事態を導いていこうとする姿勢を見失わず、でも気軽に言えると最高である。

そんなことを考えながら、編み出した自分流の反対意見、注意の言い方が、『相手の方向を向きながら、笑顔で言う』である。あと、我慢して溜め込んで爆発させるのではなく、気付いた時に軽くサラッと言えるとなお良いと思っている。また息子のいうように相手を尊重しながら言うということも忘れないでおきたい。


ん〜。自分も意見を気軽にユーモアを混じえてサラッと言ったり、言われた時の言われ方よりも言われたことの内容をしかと受け止められる様になるには、はもう少し時間と修行がいるようだ。