◯◯であるが、XXでもあり、真剣な議論が必要だ。

お友だちにかしてもらっていま読んでいる面白い本

「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート (生活人新書)

「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート (生活人新書)

これは英国人記者が日本について語った本である。


その本の序章『日本のこと、ほんとに知りたい?』に

『また、デスクは社説の文体は世界中どこでも同じだと思っていて、僕に読売新聞から強い非難ないし賞賛のフレーズを引用してくるようにと言ってくる。僕が日本の新聞の論調は「たしかに◯◯であるが、一方XXでもあり」ときて、「この問題に関しては真剣な議論が必要だ」と結ばれているのがふつうだと伝えても、決して信じてはくれないのだ。』という文章がある。

この文章を読んで鮮明に思いだしたことがある。

それは、前回の駐在時のことである。当時我が家の長男、長女は教会付きの学校に通っていた。この学校は小規模校で、学年にクラスはひとクラスしかなかった。先生と保護者、生徒の距離が短いのが特徴である。
その学校でのPTAは少人数ながら活発で、私も会議に何度か参加したことがある。お昼ご飯の食べ方が問題になったことがある。その時のことだ。


一人の親が「この学校では、お昼ご飯の礼儀がなっていない。食べ物を尊重するという態度がみられない生徒が多い。残った食べ物をゴミ箱に投げ捨てたり、床に落としたりしている。そしてそれを注意するどころか、囃し立てる風潮もあり、由々しき問題だ。ランチ時にボランティアを置いて、食事のマナーを見守るべきである。」と言った。

たしかにそれは、私も感じたことがある。サラダや野菜ものはすぐにゴミ箱に投げ捨てる。ゴミ箱から外れても気にしない。床に落として、踏み付けても平気である。


すると、もう一人の親が「でもこの学校はカトリック校で、規律がとても厳しい。他の公立校と違って、制服もあるし、規則も沢山ある。授業中の私語は許されていないし、子供達はそれを良く守っている。せめて食事時くらいは、楽しく生き生きとした子供らしい時間であっても良いのではないか。」と言った。

そう、この学校で驚くことは、授業中も私語がほとんどないことだ。生徒数が少ないこともあるけれど、速く課題を終えた子は、教科書等を静かに読んで待つように指示されていて、それを守っている子が多い。ドアの 開け閉めから、廊下の歩き方まで紳士淑女のように振舞うことを期待されている。


この二人を中心に議論が白熱してきた。
その時、「あなたの意見はどうなの?」と意見を求められたのである。



私は
「私は日本からきているので、食べ物に対する考えがアメリカ人と少し違うと思う。食べ物をとるという事は単に栄養を摂取するのではなく、命をいただいているということだと思う。だから、食べ物を粗末に扱うことには非常に抵抗を感じる。また、一方でこの学校の生徒は公立の生徒と比べてとても窮屈な思いをしているのも事実だと思う。それに食事はまず楽しい雰囲気で食べないと栄養にすらならないと思う。」と述べた。


すると、
その場にいたみんなは「だから、あなたの意見はどうなの?」と聞くのであった。


私はもうすでに立派な意見を述べたつもりなので驚いた。その場のみんなはどちらかの立場にたっての発言でなければ意見としての意味がないという感じなのであった。


日本では、小学生の頃から、「◯◯くんの意見もよくわかるね。しかしXXさんの意見も良いところがある。」と先生が◯◯くんとXXさんの折衷案を提案したり、またそのような折衷案をだした生徒が評価されて、みなさんが納得する意見もというのは、みなさんの意見を少しずつ取り入れたものだと教わってきた気がする。徹底的に議論して、自説を磨き上げるとか、他説を言い負かせるのはあまりよくない方法だと思ってきた。だから、私は本当にその時驚いたし、どっちかと言われても本当に困ったことを昨日のように覚えている。



よく外国人が日本人は意見を持たないとか何を考えているか解らないというのはこういうことではないかと思う。
イギリスのデスクが日本の新聞社の社説の論調が信じられないのもこういうことではないかと思う。



それではどうしたらいいんだろう?


西洋風にはじめに立場をはっきりさせて戦うのか。
それとも日本風にあちらもこちらもという戦略でいくのか。
これをまず決めるべきなんではなかろうか。

次に、
立場をはっきりさせて戦う時は自分がそれを意識してかからねばならない。
また
日本風に戦う時は、日本のあちらもこちらもというやり方も賢くてよいやり方だということをまずみなに説得せねばならない。



どちらにせよ、なんか面倒くさいことである。
日本人が外国人との議論とか交渉とかに弱いと言われるのはこういうところが関係しているのではないだろうか。