社内公用語英語化の意味:日本人はそんなにいらない

なんか、先の社内公用語の記事を書いてから、居心地がわるいというか、
座り心地が変というか、そんなお尻の安定の悪さを感じていた。

それが、なんなのかわかんなかったけれど、
「どの程度の英語化なのかによる。
監督者の能力にもよる」とご指摘いただいて、
その通りだと思い、ここから
自分の居心地わるさの原因がわかってきた。



日系企業で、しかも日本で
社内公用語を英語にする
というのが、
どの程度必要なのかが私にはわかりにくい。

文書だけ英文でよいのか、
会議なども全部英語でやるのか。




会議も英語でやるとして、
会議の参加者が全員が日本人であったら
なぜ英語にしなければならないのか
これは理解しにくい。


その理由を自分の体験から書いてみる。

高校生に英語を教えていて
わかりにくい英文が続く時や
わからない単語がたくさんある時に
生徒が眠そうにするのがわかる。



自分も、
ベッドで寝る時に、
ちょっと難解な英文が読もうとすると
てきめんに眠りに落ちるのが早い。



それは、なんでかという自分なりの推測なんだけど、
英語で入れられるインプット/分あたりの量が
日本語でなら入れられるインプット/分あたりの量と
比べてとっても少なくなってしまったら、
脳が「退屈やのうぅ〜」というサインをだし、
「こんなんやったら、もうシャットダウンした方が効率的や」
と思い出して、睡眠導入を始めるのでは、と思うのだ。


そうすると、
社内公用語を英語にし、
会議まで英語にしてしまったら
インプット量/分が少なくなると眠くなり、
アウトプットはもっと減る危険があり、
これは会議にならない。


よって、日本語という母語があるのに
日本人だけでの会議を英語でやるのは
全く無意味だ。

社員の英語能力向上の為に会議する訳ではないから、
こんな試みは
会社としてすごく損失だ。


会議も英語でするということは
少なくとも4分の1くらいの参加者が
日本語で会議に参加できないが、
英語ならできるというような状況がないと
意味がない。





このあたりまで考えて、
さてもともとの「社内公用語を英語化する」を
よく考えてみようと
その材料を確認しようとすると、



社内の英語徹底度がどの程度が曖昧だし、
「英語ができなくて仕事ができる人」
「英語ができて仕事ができない人」
の英語のデキの基準がどの程度なのか曖昧。
仕事のデキの基準も曖昧。


また、
「英語ができる」といって、
英検1級とか
トフルで高得点とかいっても、
英語で仕事ができない人だっている。
なんていうのか、
テストの点取るのテクニックがうまいけど、
異文化を理解したうえで
交渉ごとに臨めるとかの能力は
英語運用能力と
また別物の気がしてくる。



どうも曖昧なものの上に
さらに曖昧なものをのっけて
あーだこーだ言ってるのは、
この「ユニクロ楽天社内公用語英語化」の
文脈を自分はすっかり読み間違えているんじゃないか
ということだ。(気づくの遅すぎw)



この「社内公用語の英語化』は実は
楽天ユニクロでは
「英語のできない人はいらない。
そのような人を簡単に辞めさせることができるような
制度を作りました。」
ということではなかろうか。


だから、
「英語ができなくて仕事ができる日本人も
英語ができて仕事ができない日本人も
とにかくできない日本人はいらない。
高い人件費払うより、
仕事ができる賃金低めのローカルスタッフを
雇って日本語教えた方が早い。」
ということではなかろうか。


そのうえさらに思うのは、
新卒や、日本人を雇う数というのは
すぐに職を求めている人に
わかりやすいだろうが、
ローカルスタッフ採用の数というのは
日本人にはわかりにくいように思う。
急に世間の手前、求人数を極端に減らせないが
日本人だけをとらないというアピールを
前面に押し出しておけば、
日本人求人数が減っても
誰しも不思議に思わないという
ことはないんだろうか。(勘ぐりすぎ?)



「日本人いりません。
日本人に限らず、めっちゃ優秀な人は高額だから、
中途半端にできて、中途に給料高くなる人はいらないんです。」と
これを言う代わりに
「社内公用語の英語化」と言ったのかもしれない。


とにかく「社内公用語の英語化」は
「とりあえず英語のできる人が就職できる」
ということでは
全くないことは確かだ。


英語も仕事も両方できないと
あかんところまで
きているということだ。