京都望郷・青春彷徨・追悼梅棹忠男先生

京都で育った。
京都といっても、桂というところで
桂離宮の近くに家があった。
今も母と弟一家が住んでいる。

桂は京都の中では、湿地帯が多かった西の方で
都というには寂れたところだったらしい。
だから土地の人は
繁華街の烏丸や河原町に出るとことを
「京都にいく」などと言っていた。



私は桂中学から桂高校に進学した。
当時は蜷川共産府政で
「15の春は泣かせない」というスローガンのもと
その地区に住んでいる人はどんな学力であっても
みな桂高校に進学する仕組みになっていたのである。
中学の半分以上、3分の2くらいが桂高校に進学したように思う。


だから
とても頭の良い子と
私のようなそうでもない子が一緒だった。


桂高校はもともと農学校に普通科がくっついてできたので
農業科と園芸科そして家政科が併設されたいた。
校舎の裏には延々とと梨畑が続き
山羊がいて、田んぼもあって、葡萄畑もあった。



さらに当時の共産府政の方針で
普通科と職業科のミックスホームルームなる制度でクラス運営がされていた。
従って、普通の高校クラスのようなものはなく
授業は単位で動いたのでまるで大学のようであった。



ホームルームで一緒になった職業科の人達と親しくなった記憶はない。
彼等は私からみてもうすでに非常に大人びた人達であった。
高校入学の翌日、初めてのホームルームで
アフロヘアーをしてバーテンのような格好をした兄ちゃんが
地学の大人しそうな背の低い先生につかつかと歩み寄って
「おれ、やっぱ学校やめるわ」と言ったのを聞いて
あの人も生徒なのかと驚いた記憶がある。


家政科の女子と農業科の男子が裏の畑で熱烈なラブシーンをしているのを
ドキマギしながら片眼でみつつ側を通ったりした。


入った年になぜか甲子園に出場した。
その時は職業科の人達がリーダーシップを発揮して
チアリーダーをはじめとする応援団が即席でできたりした。
「すごいなぁ」と思った。
でも初戦敗退すると
あんなに頑張っていた職業科の人達がシンナーをやってラリってたりして
また「すごいなぁ」と思った。
もちろん、そんな子達だけでなかったはずだ。
真面目な生徒もいたと思う。



先生も半端なかった。


古典の先生はおかっぱの女の先生で新免先生とおっしゃり、宮本武蔵の親戚筋の方で
NHKの「私達の歴史」という番組で監修をされていた。
よくお宅に遊びにいって、コーヒーをご馳走になったのを覚えている。

数学の女の先生も凄かった。しばらく休講が続くと思ったら
南米にでかけていて、そこにボーイフレンドがいて結婚するとかしたとか
そんな話しで盛り上がったことを覚えている。

化学の高田先生はカラコルム登頂隊のえらいひとで
「なんで山登るねん」

なんで山登るねん―わが自伝的登山論 (河出文庫)

なんで山登るねん―わが自伝的登山論 (河出文庫)

を私が在学中に出版されベストセラーになった。
でも相変わらず飄々としておられた。

生物の先生はなんでも蜘蛛学会で有名な先生らしいが
家中蜘蛛だらけで先生があんまり蜘蛛ばかり相手にされるので
奥さんが逃げてしまわれたなどと不名誉な噂まで立てられていた。
テストつくるのも、成績つけるのも面倒くさいのか
甲状腺の大きさは?
1。そら豆大
2。ハンバーグ大
3。お好み焼き大」というテストで(今でも覚えてるものだ)
ほとんどの生徒によい成績をつけられていた。


先輩にも面白い人がいた。
「これから、日本は農業や」
と高校卒業と同時に北欧の牧場を目指して
旅立ったが、何か違うと思ったらしく
南下してヨーロッパを彷徨い
さらに南下してアフリカ大陸から陸続きで
アラビア半島、そしてインドへと来たあたりで
自然気胸を発症し、日本に帰還。
病院に入院している間に
「やはり日本はモノつくるんや」
と大学受験勉強を始めて翌年には京都大学に入学された。



桂高校は校則が「アロハ禁止」と「下駄禁止」だけだったと記憶している。
制服もない。
バイク置き場も沢山あって、バイク通学OKだった。
授業の合間に校外に出ることも普通だった。
スクーターに2人ノリして(本当はいけない)
遠くの喫茶店に行ったりした。
すると先生もいらしていて
「おい、授業に間に合う様に帰れよ」などおっしゃるのだった。
どうも学生運動が盛んだった学校のようで
生徒会館などには檄文が沢山書かれたままで汚かった。
その名残で生徒の職員会議立ち合い権まであった。
行使されなかったとおもうけど。




しかし自分と言えば
桂高校のような自由すぎる高校では
案外苦労していた。
勉強を全くする気になれなくなっていた。
かといって部活も面白くなかった。
本を読むだけが面白かった。
読書量という言葉があって
読書量だけは負けないという気持ちだった。
アッという間に3年生になった。
3年生の大晦日
桂川の土手を犬を連れて散歩している時に
「あかん、やっぱり大学にいかせてもらおう」
と大学受験を決心した。



お正月に先の京都大学の先輩に
「何も勉強してへんのですけど
大学受験をしようとおもうんですけど」
というと、
「あと、私立まで一ヶ月か。
ほな世界史と漢文だけやってみ。」
と勉強の仕方を教えてくれた。
寝ても覚めても勉強したら
どうにか私立で大学と名前のつく
女子大には合格した。


しかし私は3月に試験のある(まだ2期校とかがあった時代なのだ)
大阪外大、そこまで届かなかったら神戸市立外大を受験してみたかった。
そんな私に父は
「え〜、もうお金払うてしもたで。
女の子はそんな難しい勉強せんでええ。
それに大阪やら神戸やら遠いしあかんで」
というのである。もちろん、塾や予備校なども行かせてもらえない。



私はなんとなくこうして女子大生になってしまった。



京都というところは
えらい学者先生や
元気な学生さんを大事にする
古いものは大切に
新しいものは面白がる風土がある。





私は大して勉強しない大学生だったけれども
京都のそのような風土のおかげと
えらい学者先生が沢山身近にいはるという親近感から
また高校の化学の高田先生から
今西錦司先生の偉業をそのへんのおっさんの噂話のように
聞けたりしたせいか、
河合隼雄先生や梅棹忠男先生の本が自然と近くに感じられ、
相変わらず読書量だけは頑張って保っていた。




特に梅棹忠男先生は息子さんの梅棹エリオという方が
「熱気球イカロス5号」という本を出されていて

熱気球イカロス5号 (中公文庫 M 2)

熱気球イカロス5号 (中公文庫 M 2)

それを高校時代に共感的に読んだりしていたからか
立派な大先生を
近所の同級生のお父さん的に勝手に思っていた。


今の若い方は読んでないかもしれないけれど
「文明の生態史観」は面白かった。

文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)

梅棹先生が学術探検隊を率いて
実際にご自分で地球をあるいて
書かれた本だ。
日本てなんやねん?という先生の熱い気持ちが伝わってくる。

先生は他にも
京大方式のカードで有名な
「知的生産の技術」

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

今の情報社会を予見したような
「情報の文明学」
情報の文明学 (中公文庫)

情報の文明学 (中公文庫)

の代表的なご著書がある。


これらの本に向かうと
夫と結婚したことも
子供を3人産み育てたことも
すっかり忘れて
ただ一人の頼りない自分にまた出会ってしまう。


夫の実家のすぐ近くに
梅棹先生が館長をされていた民族博物館がある。
子供達を連れてよく通った。
モアイ像。ジプシーの馬車。
子供によって怖がったり、面白がったりするものが違った。

あんな面白い博物館は当時はあそこしかなかった。
今でいうとインタラクティブな博物館。


勝手に父のように慕っていた巨大な先生が
7月3日
お亡くなりになってしまった。


青春の迷子のような自分が
亡霊のように甦る。


梅棹先生にお会いしたことなどないけれど
お亡くなりになってとても悲しく寂しい。


ご冥福を祈ります。