アメリカというゲーム

米国とは・・・・

とは言い切れない。


何故なら、


貧富の差
人種の多様性
広大な土地(日本の約30倍)柄
が’半端ないからだ。


都会と田舎でも違う。



例をあげよう。
今私が住んでいる米国で有数の裕福なコミュニテイ、
グリニッチという小さな町(人口約6万)の中ですら
日本では考えられないような格差が存在する。




私が住んでいる所から先が(我が家は入ってない)
超高級御屋敷街になる。



ここから先は
大きな木が生え茂り、
門から自宅の建物が
かろうじて見えるお家とまったく見えない家がある。


バスケットコートがある家もあり
照明つきテニスコートがある家もある。
木立の間から
きれいなプール、その脇に立つプールハウス(これが東京の3LDKの家くらいある)
プールハウスのテラスに外用暖炉がゆっくり燃えているのが
通りを運転しているとふと見えたりするのだ。


息子の友達は家の中に25メートル温水プールがある家に
真冬にプールパーティによばれたりしたこともある。
湖が敷地内にあり、アイススケートやボートで遊べる家もある。
それが何軒も続いていたりする、というかその辺り一帯がそんな感じだ。


しかし
我が家の通りはかわいい3ベッドルーム位のお家が
並んでいる。


またもう少し駅よりに行くと、
高級コンドミニアムもあるけれど
一軒を2つにわったような家も出てくる。



そして一歩グリニッチから離れ
隣町に出てしまうと、
今度はヒスパニック系・黒人の街になる。
家だけではなく、道路も凸凹だったりする。


この通り一つ隔ててガラリと変わる感じは
日本には中々ないと思う。


近所ですらこんなに差がある。

ましてや米国の中を想像してほしい。

とうもろこし畑が延々と続く田舎
摩天楼そびえる大都会
全米の中には
サボテンだけの砂漠もあれば、
ロッキー山脈もあり
五大湖もあれば
オーロラの見えるアラスカ
ワニが庭にでるフロリダ
ハワイまである。

NYとLAは東京からインドのボンベイ位の距離。
時差も3時間。
もう本当に様々な土地柄なのだ。


また人種にしたって
本当に様々だ。

白人と一言でいったって
東欧・ロシア系から
アングロサクソン
イタリア・アイルランド
フランス・スペイン等ラテン系といるし
そんなのもうわかんないくらい混血しちゃったりもしてる。


黒人だって
何代もアメリカにいる人も入れば
アフリカ・中南米・太平洋の島から渡って来た人もいるし
でももうすごくいろんな人種と混血してる人が多い。


またヒスパニックと一言でいうけれど
あの大きな北米と同じくらい大きな南米に
沢山ある国々では違うのだ。
パラグアイ、チリ、ボリビア、コロンビアと
違う国なのだ。
ベルー料理とブラジル料理は違う。


丁度アジア系と言ったって
ベトナム、中国、タイ、韓国と日本は違うし、
タイ料理と日本料理が違うのと
おんなじ位違うのだ。



とにかく
人種だって様様なんだ。






宗教なんてすごい。
ユダヤ教キリスト教イスラム教とこの3つの中ですら
戒律が厳しいものから自由なものまで
実にたくさんの宗派がある。
他にも仏教、モルモン教、クリスチャンサイエンス、
ニューエイジカバラ等ある。
つい最近ジュリア・ロバーツという女優さんが
ヒンドゥー教に改宗したと話題になったりもした。
そして今ラマダンらしく
そんなtweettwitterで多く呟かれたりしているアメリカなのだ。
アメリカでは
そんなに宗教頑張ってるのかと思いきや
案外non-believerもいたりするのだ。

宗教も凄く様々なのだ。


このように
土地柄
人種
宗教
全て日本では想像できにくいくらい
多様性がある。


だから、全米で流行とかいっても日本のような密度の濃さと同一性はない。
それこそ「全米が泣いた」とかあんまりあり得ない話だ。



こんなに多様なので
相手を御察ししたり、御察ししてもらったりするような
同じ文化に立脚して何かを解決方法を探っていこうとするようなやり方は
もうはっきり無理といってもいい。



色々な人がいる
アメリカでは
はっきりとわかり易いルールを決めて
この中でやりましょう、というのがよい。



ルールさえ守れば
あとはどうなっているのか気にすることもないし、
気にされないし、
気にしたって始まらない。



このあたりが
日本から来たばかりだと
戸惑うところだ。



しかし一旦慣れると、楽な面も多い。
多少おかしくても大目にみてもらえる。
これが大きい。プレッシャーが少ない。
こっちも迷惑許容度がアップして
これくらいで目くじらたてちゃいかんなぁ
となる。




それに
ルールそのものも
交渉可能だったりもするのだ。



アメリカという国に来るということは
つまり
ルールを守ってアメリカというゲームに参加
するという感覚に近い。



カードゲームに例えると
手持ちの札が多く強い程勝ち易い。
しかし手持ち札が弱く少なくても
チャンスは巡ってくると信じられている。




また負けようが
勝とうが、
同じゲームに参加してる面白さは
やる気があれば味わえる。



これがアメリカという国だと思う。



アメリカ人の中には
本気でこんな風に思ってる人がいるのではないだろうか。



「なぜ我々のルールを世界で採用しないんだろう?
隣はカトリックの家族、向かいはユダヤ人、そのまた隣はアラブ系だけど
ケンカも起きないぜ。なぜ戦争とかしてるんだ。
欠陥はあるけど、このルールでゲームするのは楽しいぜ。」




そして
アメリカは
このゲームをグローバリゼイションの名の下に
世界中に広め、ルールはこうだと押し付けようとしているようにも見える。




米国はその内部にとてつもない多様性を内包しいるから、
そのことがかえって仇になり、
米国以外の国を理解することができにくいという矛盾を抱えている。
だからゲームに参加したくない国のことがわからないので
迷惑がられているとか、
ことはそんなに単純にはいかないとか
そういったことがわかりにくいと思う。





駐在員であれ、留学生であれ、
移民であれ、アメリカ人であれ
このゲームで主要プレイヤーを一瞬でも
演じたと感じた人は、誰でもがアメリカの魅力の虜になるようにも思う。


そして
言うのだ。


'It's fun. Why don't you come and play?'


ゲームにはまった人をやめさせるのは難しい。