社内公用語英語化の意味:日本人はそんなにいらない

なんか、先の社内公用語の記事を書いてから、居心地がわるいというか、
座り心地が変というか、そんなお尻の安定の悪さを感じていた。

それが、なんなのかわかんなかったけれど、
「どの程度の英語化なのかによる。
監督者の能力にもよる」とご指摘いただいて、
その通りだと思い、ここから
自分の居心地わるさの原因がわかってきた。



日系企業で、しかも日本で
社内公用語を英語にする
というのが、
どの程度必要なのかが私にはわかりにくい。

文書だけ英文でよいのか、
会議なども全部英語でやるのか。




会議も英語でやるとして、
会議の参加者が全員が日本人であったら
なぜ英語にしなければならないのか
これは理解しにくい。


その理由を自分の体験から書いてみる。

高校生に英語を教えていて
わかりにくい英文が続く時や
わからない単語がたくさんある時に
生徒が眠そうにするのがわかる。



自分も、
ベッドで寝る時に、
ちょっと難解な英文が読もうとすると
てきめんに眠りに落ちるのが早い。



それは、なんでかという自分なりの推測なんだけど、
英語で入れられるインプット/分あたりの量が
日本語でなら入れられるインプット/分あたりの量と
比べてとっても少なくなってしまったら、
脳が「退屈やのうぅ〜」というサインをだし、
「こんなんやったら、もうシャットダウンした方が効率的や」
と思い出して、睡眠導入を始めるのでは、と思うのだ。


そうすると、
社内公用語を英語にし、
会議まで英語にしてしまったら
インプット量/分が少なくなると眠くなり、
アウトプットはもっと減る危険があり、
これは会議にならない。


よって、日本語という母語があるのに
日本人だけでの会議を英語でやるのは
全く無意味だ。

社員の英語能力向上の為に会議する訳ではないから、
こんな試みは
会社としてすごく損失だ。


会議も英語でするということは
少なくとも4分の1くらいの参加者が
日本語で会議に参加できないが、
英語ならできるというような状況がないと
意味がない。





このあたりまで考えて、
さてもともとの「社内公用語を英語化する」を
よく考えてみようと
その材料を確認しようとすると、



社内の英語徹底度がどの程度が曖昧だし、
「英語ができなくて仕事ができる人」
「英語ができて仕事ができない人」
の英語のデキの基準がどの程度なのか曖昧。
仕事のデキの基準も曖昧。


また、
「英語ができる」といって、
英検1級とか
トフルで高得点とかいっても、
英語で仕事ができない人だっている。
なんていうのか、
テストの点取るのテクニックがうまいけど、
異文化を理解したうえで
交渉ごとに臨めるとかの能力は
英語運用能力と
また別物の気がしてくる。



どうも曖昧なものの上に
さらに曖昧なものをのっけて
あーだこーだ言ってるのは、
この「ユニクロ楽天社内公用語英語化」の
文脈を自分はすっかり読み間違えているんじゃないか
ということだ。(気づくの遅すぎw)



この「社内公用語の英語化』は実は
楽天ユニクロでは
「英語のできない人はいらない。
そのような人を簡単に辞めさせることができるような
制度を作りました。」
ということではなかろうか。


だから、
「英語ができなくて仕事ができる日本人も
英語ができて仕事ができない日本人も
とにかくできない日本人はいらない。
高い人件費払うより、
仕事ができる賃金低めのローカルスタッフを
雇って日本語教えた方が早い。」
ということではなかろうか。


そのうえさらに思うのは、
新卒や、日本人を雇う数というのは
すぐに職を求めている人に
わかりやすいだろうが、
ローカルスタッフ採用の数というのは
日本人にはわかりにくいように思う。
急に世間の手前、求人数を極端に減らせないが
日本人だけをとらないというアピールを
前面に押し出しておけば、
日本人求人数が減っても
誰しも不思議に思わないという
ことはないんだろうか。(勘ぐりすぎ?)



「日本人いりません。
日本人に限らず、めっちゃ優秀な人は高額だから、
中途半端にできて、中途に給料高くなる人はいらないんです。」と
これを言う代わりに
「社内公用語の英語化」と言ったのかもしれない。


とにかく「社内公用語の英語化」は
「とりあえず英語のできる人が就職できる」
ということでは
全くないことは確かだ。


英語も仕事も両方できないと
あかんところまで
きているということだ。


サッカーと社内公用語(ワールドカップに寄せて)

日本では、楽天ユニクロの社内公用語が英語になったと話題になっているようだ。

ビジネス用語、世界公用語リンガフランカと考えて、ふと思い出したのは中国系アメリカ人の友達と交わした昔の会話だ。

それは、彼の家でそこのうちのおばあちゃんが中国のテレビを見ていたときのことだった。そのテレビでは中国語で放送しているのだが、中国語の字幕がついていたので、「なぜ?」と聞いたら、「中国語と一口に言っても、北京語、広東語、上海語台湾語などあってね。同じ中国語でも、それぞれ発音や文法、漢字も違うんだよ。そこで中国政府は標準語に統一しようとしているのさ。でもね、そうなる前にきっと英語が世界の言語になるよ。」というのであった。弁護士の彼は、ドイツの自動車の合併などに関わっていたので更にこう話してくれたのである。「クライスラーダイムラーベンツが合併したね。本社がアメリミシガン州とどいつのシュツットガルトにあるんだけど、そのドイツのシュツットガルトでは、ドイツ語ではなくて、英語で会議なんだよ。」それは1998年ダイムラークライスラーが合併した翌年ぐらいのことであったのだ。


その後、ダイムラークライスラーは大方の予想通り上手くいかずに、2007年にクライスラー部門を売却して、合併はなくなった。今回ちょっと興味が湧いて今現在のダイムラー社の社内用語はなんだろうと調べてみた。すると、社内公用語は英語とホームページに記載してあった。

ついでに色んな企業も調べてみた。フィンランドノキア、ここも社内公用語は英語と記載してある。デンマークのレゴ社は、1975年から社内公用語は英語とあった。エアバスはフランスに本拠地があるものの、もともと多国籍で会社が始まったので、設立当時から社内公用語は英語だそうだ。

調べてわかったことは、ヨーロッパはEUになりユーロが通貨として流通し始めた2002年からはからは、大企業ではない小さな会社であっても、地元で働く弁護士であっても、英語ができないとビジネスになりにくくなったということだった。



つまり、今行われているムスコカサミットの参加国では、2002年以降はロシアと日本以外の地域では、社内公用語を英語にしてビジネスを行っているということだ。



こうなると、業種によるけれどやっぱり英語を使いこなして、同じフィールドにのらんとあかんのでは?と素人の私は思ってしまう。

もちろん、胸襟をひらいて、社内でコミュニケーションするためには、日本語を使うことは大事だと思う。でもそうして日本語でみなで考えた面白いアイディアを英語にして発信できるとすてきだ。発信して受信してまた新しい考えがでくるその過程を誰か英語のできる人任せにするんではなくって、一人一人ができると面白いし、その一人一人が日本人でなくてもそれはそれで面白いチームだ。


グローバル化するってことは世界標準にに合わせることではないはず。日本の企業には地球というフィールドで、次次に日本の技をかけまくってほしい。勝ちをねらってほしい。一々監督の顔みながらゲームをするんではなくて、サッカーのように自分で考え動きながら、チームでの勝ちを奪い取ってほしい。


その為には、何か新しい工夫が必要だ。その工夫の一つに社内公用語を英語にするがあってもいい。何もしないであれこれ考えているより、やりながら考える位のスピードが必要な時代ではないだろうか。


それに、フィールドはネットになってるかもしれない。インターネット人口で使っている言語の割合は1位が英語で、2位が中国語、3位がスペイン語、4位が日本語だ。(Wikipediaより)やはりもう、翻訳コンニャクやC3POの出現を待っていられない。



それに、言語は人間の行動や発想もまた変えるところがある。英語は論理的な言葉だ。結論を先に言う。新情報は一番最後。日本語と逆だ。だったら、日本語の発想・行動だけでなくて、英語的発想・行動もできると2刃流で戦えることにならないだろうか。その危うさはあっても、いざとなればいつでも刀を一本捨てればいい。どっちも使える方がいい。そう、利き足ともう一方の足、両方使えるサッカー選手の方が強い。最初から両足を使えるというより、利き足あっての両足ということさえ忘れなければいいのではないだろうか。

ゆとりの子らよ、大志を抱け!

3番目の子どもが、小学校に入学した年に「ゆとり教育」が始まった。
長男は高校入学。長女は中学に入学した年、2002年だ。


ゆとり教育」は、学校で教える内容をhow ではなくwhy重視、かつコンパクトに教え、しかしながら定着させるための演習は家庭で、そして学校では経験を重視し、創造性を高める教育であったと自分は解釈している。


いろいろな理由でこのような「ゆとり教育」が実施されたのだとおもうけれども、方向としては、そう間違っていなかったのではないか、というのが私の見解である。



中国やその他アジアの低賃金でしかも良質、そしてたくさんの労働者を有する国々と戦っていくためには、ある程度優秀な人物を大量生産するような当時までのやり方ではなくアメリカのように、500人のなかに現れる1人の天才を作る教育をしようとしたのだろう。ユニークな視点、類い稀な美的感覚、未来を見据える力、このようなものを創り出すには、なるべくやらねばならないことを少なくして、自ら考える力をつけようと「総合の時間」などの経験と知識を結びつける教育が必要だと考えたのもよく理解できる。


この教育がいろいろなところで批判されることになったのは、まず、「ゆとり教育」という名前が一人歩きして、「ゆるい教育」と受け取られたこと。そして、
定着させるための演習は自宅でさせるのだという部分の宣伝不足(批判恐れて、声高に言えなかったのではないか)。この二つは大きいとおもう。


「お上はなにもする気はない。教育は自分で責任を持ってするんだ」という覚悟がありすぎる親達と、「よくわかんないけど、ウチの子の成績悪くないし、これから学歴とかで会社にはいる時代じゃないから、ま、いっかな。」というのんきな親達に分かれた気がする。「ゆるい教育」が響いた親と、「自分が定着させるための演習をみてやる」ことに気づかなかった親とも言える。


さて、それから約10年。「ゆとり」から「脱ゆとり」に舵をきる日本。


その間に、一番下の子どもは、中学3年、2番目は大学3年になった。
1番目はもう働いている。



ここにきて、今日本は、不況による新卒就職氷河期ではなく、日本企業の生き残りをかけた構造改革による新卒就職長氷河期になる様相だ。パナソニックユニクロ三菱重工も日本で新卒を今までのように多くは取らずに、現地採用を増やすということだ。この流れは止められないだろう。企業の国際化というより、企業が成長しようとするにはもうそれしか道は残っていないのだ。


いよいよ日本でも始まってしまったと思う。ボーダレス時代のボーダレスな戦いが始まってしまった。



食糧も水も、燃料も地球にあるものは限られている。全人類が日本人と同じ様な暮らしをしようとしたら、地球が七ついるという試算がある。それくらい、日本は今豊かな国だ。しかし、それがいつまで続くのかわからない。


資源の分配がどのように行われるのか、現在の地球では、経済力によってその分配が行われているのだ。これまで日本人は個人を犠牲にしてまでも会社に尽くし、その見返りとして会社が自分達の面倒をよみようとしてくれていた。自分達はその中のよい場所へもぐりこもうと必死だった。会社や国という枠の中でお互い競い合いながら一緒に外敵と戦っていた。



しかし、もうそういう時代ではなくなった。これからは、自分をたよりに世界を相手に戦うことになる。自分の武器はなんなのか、それを手にいれて、その手入れを怠ってはならない。それは学力かもしれない。社交術かもしれない。美的感覚かもしれない。癒しを施すことかもしれない。なんでもいいから、なにかを手に自分で戦うことを忘れてはならない。でも、一人ではない。仲間を作る事はできる。友達は助けてくれるかもしれない。家族も応援してくれるだろう。世界中を相手に戦うということは、世界中で仲間をつくることができるともいえる。世界中が君たちのフィールドだ。


ゆとり教育」でそだった我が子を含む若者たちよ。

君たちを計る物差しを持っている大人はいない。
「ゆとり」とラベルを貼られても
気にすることは全くない。






既得権益者が居座ったのち、逃げ切り、自分達若者がワリを食っているという感情があるなら、怒り狂っても構わないから、しかしもう一方で「自分」を信じて、ちゃんと自分の武器を磨いておいて欲しい。いろんな仲間を作っておいて欲しい。


そして、世界中でたったひとりのオンリーワンを目指さずに、
仲間と一緒に得意な分野での
ナンバーワンを目指して欲しい。
そのほうが、具体的に動ける。
具体的に動けば、具体的に問題にぶつかる。
問題にぶつかるとは、問題を発見したということなのだ。
問題にぶつかったり、迷ったりするほうが、
何通りもの答えを探す糸口になる。
紆余曲折することをおそれてはならない。


世界標準からすると、日本は自由で平等な国だ。


アメリカ社会は、その既得権益者が代々に渡って権益が受け継がれるような上手い社会システムになっている。イギリスの階級社会より、流動性が少ないと「アメリカ社会」入門ーニューヨークに住むイギリス人コリン・ジョイスがその著書で述べている。

「アメリカ社会」入門 英国人ニューヨークに住む (生活人新書)

「アメリカ社会」入門 英国人ニューヨークに住む (生活人新書)

アメリカンドリームはドリームで終わることがほとんどなのに、「夢を諦めるな」という文化でアメリカのシステムの欠陥を覆い隠している。アメリカの格差は日本の格差の比ではない。日本の格差は高々収入差にすぎない。
中国も然り。世界にはそのような国のほうが多いのである。



若者たちには、未来がある。その大きな未来に自分の年金がどうのと今から気にしないで欲しい。もっと大きなことを考えてほしい。


わたしたちは、日本の子どもの数が、日本国内の犬の数よりも少ない事をしっているだろうか。日本のすべての子どもの数よりも、上海の子どもの数の方が多いことを知っているだろうか。


若者は日本の宝だ。

一人一人が活躍できるように年寄りはおもいっきり応援しようではないか。

若者よ、自由に羽ばたけ!大志を抱くのだ。

群れを率いる

鳩山さんか急に辞任したことに対して
たくさんの議論がされている。


USA TODAYの鳩山辞任の記事のコメントに
4th in 4 yares! Definitely should raise a doubt about the leadership in that country.
と書いているアメリカ人(住所書いてなかったけど、多分)がいた。


タイム誌の鳩山辞任の最初の書き出しも
クリントン大統領が、
「僕が任期中に相手をした
日本の首相は何人だと思う?
7人さ!」という
びっくりトリビアからだった。


日本のマスコミの論調はどうなのか、
日系新聞も、
テレビも入れてないから
ネット以外の
一般的な報道がどうされているのか
よくわからない。


しかし、
こんなに変わって情けないとか
思っている人も多いのではないだろうか。



日本と欧米のリーダーシップのあり方について
雁の渡りヒントを得て
http://d.hatena.ne.jp/oba3inUS/20100218/1266459126
こんなことを去年書いたことを思い出す。


雁の群れを率いる話だったが、
日本語と違って英語では
「群れ」と一口に言っても、
たくさんの言い方がある。


思いついたところをあげると、


狼などはpack
大型草食動物はherd
魚、オットセイなどはschool
昆虫はswarm
鳥類はflock
だ。

言語社会学を勉強したことはないけれど、
「群れ」にこんなに
たくさんの名前があるのは、
英語は狩人が使う言葉から
発生した言語だからではないかと思う。


だから英語人の発想する
リーダーというのは
猟犬や狼など
狩をする群れのリーダーがモデルだと思う。


リーダーを頂点となすピラミッド。
そして、
チームの成員は
彼が最強の力を持っていることを
よく理解して、
よくついていく。



一旦たてたリーダーを仲間内で
下ろそうとするよりは
狩をして
獲物が得られるかどうか
何回かためしてみる。


何よりも
リーダーが一番強く、
隅々までその権力が行き届かなければ
チームはよい狩ができない。
そのことをチームのメンバーも理解している。



『ウサギ一匹に統率されたライオンたちの軍隊よりも、ライオン一頭が統率するウサギたちの軍隊のほうがましだ。』(Napoleon Bonaparte)


とナポレオンも言っている。



わたしたち、日本人のリーダーモデルは
こんなにたくさんの首相が入れ替わりしても
暴動も何もおきないことを考えると、
やはり、
鳥類モデルなのではないだろうか。




日本人は団体行動がすきだとか、
流されやすいとか
「個人」がないとか言われるのも
日本人が「鳥類タイプ」の民族であると
思うとある程度納得できる。


また、欧米人が
チームプレイというときに
思い浮かぶ
「個人」という土台がある上での
個性を生かしてチームに貢献するイメージは
彼らが「猟犬タイプ」の民族であると
考えるとわかりやすい。



今の日本の問題は
世界中の人々が「鳥類タイプ」だと
勘違いしてしまいがちなことではないだろうか。
ここに、普天間問題も絡んでくると思う。




世界には百戦錬磨の
「猟犬タイプ」チームがたくさん存在していることを
忘れてはならない。


だからといって、
急に「猟犬タイプ」の国になったほうがいいとも
思わないし、
急になれるとはまったく思われない。



ただ、「猟犬タイプ」が狙っているかもという
その自覚は必要だ。



表だった激しい議論の応酬や
戦いがなくても
敵というより
仲間からの突き上げで
水面下でやりあいながら
でも
阿吽の呼吸で
空気を読みながら
わりとあっさりと
順番でリーダーを交替させて
群れを率いていくわたしたちのやり方が
かなり特殊であることは
日本の人々も今回の騒動をきっかけに
ある程度は気づき始めていると思う。

そして
それじゃ、ダメだ、
これじゃあ、
世界で戦えないと
思っている人も多いと思う。


しかし、
自分達が
「鳥類タイプ」の日本人であり、
その「鳥類タイプ」の日本人が
急に
リーダーだけを
「猟犬タイプ」にして
作ることはものすごく難しいことであるという理解は
あまりされていないと思う。


それは、本当にとても難しいことだ。
日本人全体が
「猟犬タイプ」の民族になるには
どれくらいの時間がかかるのだろう。


江戸時代から平成まで
と同じくらいの時間がかかりそうだ。
革命でも起こさない限りは!



わたしたち、地球に住んでいる人類は

一体いくつの「タイプ」の国や、
民族があるのだろうか。
狩猟民族、農耕民族、遊牧民族
大雑把には分かれるんだろう。

しかし、
どんどんその「タイプ」の垣根が
崩れて行っているのは確かだ。



やがて、一つの地球タイプ人類になるんだろう。


それまでに、
「鳥類タイプ」が「猟犬タイプ」
に一方的にやられてしまうのか、


あるいは
タイプが融合していくのか、


徐々に「猟犬タイプ」のやり方に
吸収されていくのか
わからない。


ただ
「鳥類タイプ」の一員である私は、
「猟犬タイプ」の国々に
こういうのもあるんだよ
と「鳥類タイプ」のちょっと違った
視点を発信していければ
これから地球に住む私達も
案外面白い人類になるのではと思う。



今、
日本には、日本のシステムがあり、
欧米と違うリーダーシップの国も存在すると
主張する気がなくて、

「猟犬タイプ」のリーダーが
欲しいのなら、



自分達からまず
「猟犬タイプ」にならねばならないことを
よく自覚しよう。


リーダーシップも群れの性格によってちがうはずだ。

サッカーの試合に絶対負けない方法

絶対にサッカーの試合で負けたくなければ
サッカーの試合に出ないことである。


絶対にテストで悪い点をとりたくなければ
テストを受けないことである。



絶対に失恋したくなければ
恋をしないことである。


絶対に傷つきたくなければ
誰も信用しないことである。


絶対に失敗したくなければ
何も挑戦しないことである。



絶対に恥をかきたくなければ
誰の前にも出ないことである。



絶対に死にたくなければ
生まれてこないことである。


でも、
私たち、生まれてきちゃった!
しらないうちに
生きてたんです。


だから、

誰かの前に出て
恥をかいてみよう。


何かに挑戦して、
失敗しよう。



誰かを信用して
裏切られ、傷ついたっていいだろう。



誰かに恋をして
失恋しよう。
振ったり、振られたりしないと
人間の情がわからない。



テストを受けて
悪い点をとってみよう。
自分の小ささを受け入れよう。
そこからどう動くのか
それだって面白い。
諦めたっていいじゃないか。
何度も挑戦したっていいじゃないか。


サッカーの試合に出るのと
出ないのとどっちが面白いのか。
負け続けても
ゲームって楽しむためにあるはずだ。
そして人生もまたゲーム。
楽しんだ方が勝ちとも言える。


負け続き、
失敗続きの人生でも
友達はいてくれる。
友達を愛していれば、
友達を大切にしていれば。


ハムレットにはサンチョパンサはいないけど
ドンキホーテにはいるんだ。
悩んでもいいけど、
でかい風車にアタックしよう。



そして
ひょっとして
ひょんな拍子で
何かがうまく行ったら
それを仲間と謳歌しよう。


私もその歓喜の雄叫びを
どこかで聞いていたい。


私もその仲間に入ってみたい。


私もそんな喜びをみんなと
分けあってみたい。


さあ、ゲームに出よう。
応援してくれる人もいるんだもの。

アメリカ社会の財産

アメリカという国では、
と一言では言えないということを
つい昨日書いたばかりなのに、
それでも
言えそうなことがある。



それは、
早寝早起きだ。



アメリカ人は一般に早起きが好きだ。
日の出とともに起きる感じ。
学校も早く始まる。
多くのアメリカの学校では今でも農業に合わせた
時間配分をとっており、
高校の始業時間の多くは7時台である。



ここグリニッチでも
高校始業は7時半、終業は2時15分である。



会社の始業時間も早い。
カルフォルニア州では、8時始業が普通。
6時や7時もでてきているという。


ブレックファーストミーティングなど言うと、
6時とかになるらしい。


近くのスーパーも
大概は7時半開店だ。



そして
早く起きるから、早く寝る。




夜8時くらいになると、
道路はもうガラガラ。


10時くらいには
街はもう眠っている。
家の灯りも真っ暗である。



夕方7時ころに
デパートにその当時5歳位の息子を
連れて行ったときには、
すれ違う人達から
冷たい目線を浴びせかけられたことを思い出す。



お父さんも
お母さんも
子供も早く帰って来て
ごはん(どんなものであれ)
を一緒に食べて、
団欒をして
早く寝る。


健康的だ。
そう、この体が資本の感覚が
この国ではよく理解されている。


睡眠を削って
仕事や勉強をしない。



睡眠を削ると
体力が落ちて、
健全な思考が鈍る
不注意なミスが増えるなど、
却って全体の
パフォーマンスが下がる弊害の方が
クローズアップされる。


これは、
非常に合理的な考えだ。


体と心は密接に結び付いている。
体がまいってはなにもできないではないか。



いくら自分は夜型だと言っても、
10時から2時の間に
成長ホルモン、アンチエイジングホルモンが出る
と科学的に証明されている。
癌細胞は丑三つ時に一番成長するらしい。
人間の体は人間が住むことができる
唯一の場所である。


10時に眠れるような
生活習慣が望ましいと思う。


だれも強制しているわけではないのに、
ついなってしまう早寝早起き社会。


これは本当にアメリカが誇る財産だと思う。

アメリカになりたいアメリカ

アメリカと一口にいっても
大変広い。

NYとLAの距離は
東京とインドのボンベイくらい。
時差は3時間。
インドのボンベイまでの間には
海もあるが、
NYとLAの間には
アメリカ大陸がある。
NYとLAその間にも9つ位州があるのだ。

南北だってすごく広い。
アラスカもあれば、フロリダもある。


アリゾナのグランドキャニオンも
大草原も、大都市も
ロッキー山脈も全部アメリカだ。


NY州にあるアディロンダック公園とか
東京都が丸ごと5つは入る。

アメリカは
土地は日本の30倍。
人口は2倍。

正直単純にでかいなーとおもう。

風景も違えば気候も違う。
だからアメリカでは、とか簡単に言えないし
一般化できない。

また
経済格差もとても大きい。

アメリカ人の友達が此の間
中西部の州に行ったら、
もう太った人ばかりで
気持ち悪かったと言っていた。



そんなに遠くに行かなくても
隣町に行っただけで
太った人というより、
超肥満な人(obese)な人を見かける。


グリニッチでは見事に見かけない。


肥満は経済格差と密接に結び付いている。
太った人が多いということは
それだけ、貧しいということだ。
彼らは野菜を買うお金はないが
一ドルバーガーは買えるのである。
水よりもソーダーの方が安い。

NY州、コネチカット州ニュージャージー州
トライステイト(首都圏?みたいな)と呼ばれ、
比較的裕福である。


州によっては、
本当に貧しい州もある。
そんな州では
どこをみてもみな太っていると
友達は嘆いたわけなのだ。

だから
こういうのがアメリカでは一般的などとは
本当に一言では言えない。



日本で
そんなことがあるだろうか。
小金井市は太っている人を見かけて、
武蔵野市にはいないということは
考えられないし、
東京都や神奈川県では太っている人があまりいないが、
それ以外の県で肥満が多いとか聞いたことがない。


さらに
人種も多様。
文化も多様。
宗教も多様。


給食などを単一メニューにするなど
ありえない。
宗教的に食べられない物もあるし、
ベジタリアンという場合もある。




このように、
地理的、経済的、文化的にも
非常に広大な開きがあるアメリカの
公立学校では
授業が始まるまえに、
みなで
国歌を歌って、
誓いをたてる。


みなでアメリカ人になる。
移民を沢山受け入れてきたアメリカ。
私たち駐在員の子供ですら
受け入れようとしてくれるアメリカ。


もともとバラバラだから、
あの国歌を歌って、
旗に誓を立てて、
一体感を味わう。
そして、
アメリカに誇りをもつ。


自由と平等の国アメリカに。


アメリカという国は
みな、
国民が真剣に
アメリカ人になりといと
思っている国だとおもう。