「育ちがいい」ということ

「育ちがいい」って
上流階級に生まれた
とか
裕福な家にうまれた
とか
そういうことではないと思う。



「育ちがいい」って
どれだけ
自分が愛されている
ということを
実感できてきたのか
だと思う。



「育ちがいい」って
どれだけ
素晴らしい人と
出会えてきたのか
ということ
だと思う。

一瞬の中の永遠に輝きをもたらすこと

Inception観た。


Inception: The Shooting Script

Inception: The Shooting Script

面白かった。
まだ公開中なので詳しいことを書くのは差し控えるが、
夢が何層にもなっていて
その夢の層によって時間の流れる速さが違う。
それを利用して、パラレル宇宙のように
並行して物語が進行していくのだ。



現実の5分が
一時間に、
一日に
一年にと
夢が深層にいく程
時間の流れる速度が遅くなる。



これをうまく利用して
ストーリーが展開するのだ。


確かに夢の中で
いろんなことを体験して長時間たったように
感じられるのに、
ハッと目覚めると
一瞬だったということがある。



脳内で一瞬で経験できることを
わたしたちは
肉体を持っている時には
実際に肉体を動かして
肉体を持った対象物を相手に
いろいろな働きかけをしてと
時間をかけないと体験したことにはならないのだ。




そう思うと
生きてる時間の長短は
あちらの世界(肉体を失った後の世界)では
案外
一瞬の違いでしかないように思う。
早く死んでしまっても
長生きしてもあちらの世界では
ほんの一瞬の違いであり、
大事なことは
その一瞬をどのように生きて
その一瞬を煌めかせることができたのか
だと思うのだ。





しかし
「そんな死後の世界なんてあるわけないよ。
死んだら、そこで世界は終わり。
『あちらの世界』なんてない。」
という人もいるだろう。
私の父はいつもそう言っていた。






でもそんな人でも
時間の流れは
現実今生きてる世界でも
アッという間に感じられたり
永遠のように感じられたり
するのではないだろうか。






アッという間に感じる時は
肉体を使っていても
その存在を忘れるくらいに
無意識の内に没頭している時ではなかろうか。




肉体を使用していても
意識が肉体を離れれば
離れる程時間は速度をあげる。



逆に
お腹がすいたり、
眠かったり、
どこかが痛かったり、
動き回りたくなったりと
肉体を意識すればするほど
時間の速度は遅くなるように思う。




だからあちらの世界までいかなくても
脳内の精神の方向からみる時間は
肉体をもって過ごしている時間の長短など
一瞬の違いでしかないともいえるのではないだろうか。




人間は生きてる内は肉体を離れることはできない。
だから、なんでも時間がかかる。
頭の中では簡単に思われることでも
実際に応用しようとすると
とても時間がかかる。



わかっちゃいるけど
やめられないこともあるし
わかっちゃいるけど
さっさとできないののが常だ。


そして肉体にまで
その苦痛が及ぶ時は
本当に苦しい。


恋愛においても、
ただのほのかな片想いレベルではなくって、
一緒にアッいう間に感じられる時を過ごした後に
どうしても会いたいとか
どうしても声が聞きたいとか
そういうレベルになると
逢えない辛い時間が長く感じられると思う。



またこうも思う。



時間がかかって苦しむことも
あちらの世界や脳内の精神からみれば
一瞬なのではないかと。


だから
永遠に続くような苦しみも
あちらからみれば、一瞬。


その一瞬に没頭していくと
こちらの時間の速度が上がっていくということも
あると思う。



理不尽を嘆きながらも
そのように工夫して眼前の苦痛を
耐えていかねばならない事だって
私達にはきっとある。






あちらの一瞬の中にある永遠。
その永遠を輝かすには
こちらで
肉体をもったまどろっこしい私達が
不器用にも
真摯に運命に立ち向かうこと
忘我の境地で取り組むことだ。




肉体を持った私達が
時間を過ごすことの意味とは
そういうことではないかと
思った。

LOVEのススメ

Love という言葉について考える。



聖書のLOVEをなんて訳するかとても困った
修道士が「ご大切」と訳されたのは
中々良いセンだと思う。



しかし
今、loveというと、
やはり「愛」と大体の人が思うのではなかろうか。



日本人は奥さんに「愛してる」とかあんまり言わないとか
愛情表現が下手だとか
とかいう一説がある。




でもそれって、ひょっとすると、単純に
「愛」と「love」の言葉の定義の違いだとおもう。



「love」は「愛」よりも敷居が低い。


だって、
「I love icecream!」は普通だけど、
「アイスクリームを愛してる」というと
かなり深くアイスクリームを理解して艱難乗り越えた感じがある。


また
洋服や、パフォーマンスに対して
すごく良いと思った時によく使われるフレーズに
「Love it!」がある。


日本でお友だちが試着した洋服をみて
「それ、愛してる』なんて言わないもの。


だから、「love」はもっと気軽で
日本語的には「大好き!」とか「気にいってる」くらいで
「love」までいける気がする。



奥さんにだけではなくって、
子供にも、おばあちゃんにも、
電話の最後にアメリカ人が「I love you」
とか言ったりするのはそういう「love」という言葉の定義があると思う。


英国人はどうなのか?
よくわからないが、
lovely weatherとかいう表現をよくするように思う。
お天気が愛らしいくらいだから、米国と同じ感じかもしれない。



では米国人がみな奥さんに
「I love you」を気軽にたくさん囁いているかといえば
そうではない人も結構いるようだ。



こちらで人気だったテレビのコメディー
『Everybody loves Raymond』
という番組の中で
主人公の奥さんがもっと「I love you」を気軽に
言って欲しいと主人公に頼むのだが、
主人公の家族には人前でそういう事を言ったりする
習慣がないので、とてもぎこちなく、
とても変になってしまうのを面白おかしく描いた
エピソードがあった。



そしてそれが結構ウケテルということは
日本人的に愛情表現があまり得意でない男性も
かなり存在することを裏付けてると思う。



それでも
主人公はなんとかその「ぎこちない感」を克服し
「I love you」を奥さんに言えて
ハッピーエンドになってた。


日本語の「愛」より
とってもお気軽な感じがする「love」を
開放的な米国人男性ですら奥さんに
恥らって言いにくかったりするんだから
「愛してる」という言葉を普通に
日本語で表現するのはかなり
ハードルがかなり高いと思う。



「大好き」
とか「好き」
とかよりももっと気軽な
「お気に入り」くらいの感覚の
前向きに肯定してますという事を表す
使い易い日本語を発明したら、
もっと明るく楽しい社会になるんではと
思う。




でもむしろ
会社で
日本人どうしでも
英語使用を奨励しているようなところもあるから
ここは、新しい日本語を発明するより
英語を広めちゃって
家族に対して
さよならの代わりに
「Love you!」と気軽に言うとかどう?


無理?

そうかもね。


それでも
この拙文を読んでくださった貴方に



LOVE YOU!!!

WAYを行く者

To be OLD and WISE,

you must first

have to be

YOUNG and STUPID



という落書きを見た。


そうなのだ。

我々大人もバカな愚か者だった。
どんなに賢い人でも
若い頃は愚かだったことがあると思う。


ずっと賢かったと思っている大人もいるかもしれないが、
そんな人の側にあまりよりたくないのは
きっと私だけではないはずだ。


私といえば、愚かだったというよりは、
徒に年齢を重ねて
現在完了進行形的に愚かでいると自覚している。


しかし、その愚かな自分が
その自分の愚かさを棚に上げて
何か若い世代が愚かなことをするのを
だまって見ていられない時がある。


経験上(私の場合は失敗の経験が多いのだが)
この先どうなるかということが大体わかってしまう気がするのである。
そして、それは大体において残念なことに当たっていることもあるのだ。
そうすると、益々自分の経験則を当てはめようとする傾向がでてくる。



でも、私を含めた大人たちよ。


違うのだ。
若者は愚かでいる特権がある。
彼等に小賢しいことを教えてはならない。


大人が通った道は過去の道。
若者が通っている道は現在の道。
川の流れのように
同じようでいて今流れている水と
さっき流れていた水はたとえ同じ川の同じ場所でも違う。
故人の教えの通りである。


大人は自分が通った道をよく知っている。
そしてその様々な経験の蓄積から
こうするとこうなるという
智慧を授かる。
それが無意識まで沈潜すれば
カンにすらなる。


それらを子供に伝授してもよいが、
彼らが大人の智慧を必要としなくなった時、
言うことを聞かなくなった時に
「どうしてそんなバカなことをするのか」
と思うのは間違っている。




子供が道を通るとき、
彼らは初めてその道を知るのだ。



彼らもまた自分で通って転んだり、滑ったりしてみないと
彼らはその道を学ぶことにならない。
だから、愚かに失敗することに価値があるのだ。
若いとはそういうことだ。




英語では「道」に当たる単語がいくつかある。
代表的なものをあげてみる。

roadこれは、県道のようなイメージの単語だ。
町と町をつなぐ道。

streetこれは、市街地を通る道のイメージだ。
両脇にビルなどが立っている道。


wayこれは、自分で切り開く道だ。
瞠るかす地平線へとあるいは荒野へとあるいは険しい山へと
曲がりくねりながらまたはまっすぐに伸びる道だ。


大人が用意して整備されたような道もある。
ボーリングのレーンのような障害のない道。
それをcourseという。




courseを進むのものがいてもよいが
荒野を目指しwayを進もうとするものに
自分の経験を語って、
道を阻んではならない。




wayの半ばで倒れている若者がいたら
手当をしてやり、
「自分もこうして倒れて、
誰かに助けてもらったことがある。
私のことを気にせずに君の道をまた進め。」
とyoung & stupidな若者を介抱する

そんな人にもしなれたなら
私はもしかして
old & wise になれたということかもしれない。

読書感想文とブックリポート

読書感想文を夏休みの宿題に出す学校も多いのではないかと思う。

読書感想文と言えば
10数年ほどまえに実家を建て替えるというので
昔のアルバムや、私が書いた作文が父から送られてきて
その中に読書感想文を見つけたことがある。


「ごんぎつねを読んで」という題である。


新美南吉の「ごんぎつね」はずっと国語の教科書に
採用され続けていたようなので
お話を御存知の方が多いと思うが、
簡単に紹介しておこう。



山の中で一匹で住んでいたごんぎつねは
悪気のないいたずらもので、
ある日兵十のびくに入っていた魚やうなぎを流してしまう。
その後で、兵十の母親が亡くなり、
兵十がたった一人残されたことを知る。

きっと兵十の母親は今わの際にうなぎが食べたかったのに
違いないと思い、自分のいたずらを大変後悔し
それ以降兵十に魚を届けるが、
兵十が魚泥棒と誤解されかえって迷惑をかけてしまう。
次にごんぎつねは栗を届けるのだ。


栗をごんぎつねの贈り物としらない兵十は
神様に感謝する。
割に合わないと思いつつもまだ栗を贈り続けるごんぎつね。
そんなある日兵十は
栗を持ってきた
ごんぎつねを見つけて
いたずら狐め、と思い
鉄砲で撃ってしまう。


その時、
そばに栗が積んであるのをみて
今まで栗を届けてくれていたのは
ごんぎつねだったのかと知るのであるが、
ごんぎつねはそれにただうなずくだけで
死んでしまうのだった。




この話に
幼い自分は大層感動して
最後の場面では
泣いてしまったように記憶している。



私は自分の読書感想文に
当時の幼い自分の感動がどう表されているか
非常に興味をそそられた。

そして
送られてきた読書感想文を読み返して
仰天した。



私の作文は
「ごんぎつね、あなたは兵十がお母さんにうなぎを食べさせてあげたかったと
どうしてわかったのですか。
きつねのあなたには、おいしくうなぎをお料理する方法を知らなかったのでは
ありませんか。」
という文から始まっているのである。



そして、そこから先は
うなぎの蒲焼の作り方の説明が続き、
最後に
「人間はこんな風にして、うなぎをお料理するのです。」
と締めくくられているである。




私が先生であったなら
「この子は、この話を全く理解していない。
ごんぎつねの心情の変化などまったくわからないんだな。」
と思ってしまうだろう。



私は幼い自分が読書感想文というものが
何を書けばよいのかということを理解していなかったんだと思う。


「自分の思ったことをそのまま書いてごらん」とでも言われたのだろうか。



日本の読書感想文は、本を読んだ感想を自由に書くことになっている。
しかし、本当は大人からみて、書いてほしいポイントがあり、
それを書けなかった生徒は低い評価をされるようになっている。




実は、
アメリカにも読書感想文に相当する
「book report」というものがある。




しかしそれは自由に書くことを期待されていない。




書かなければならない要素がレポート課題として
はっきり明示されている。
そして
それにそって書かないといけないのだ。




しかも驚くべきことに生徒がたとえどんな本を読んでも、
このワンパターンに当てはめて書かなげればならないのである。





ここにフィクションのブックリポートについて
どのように指示が出されるのかを書いてみた。


(小学生から高校生まで
程度の差はあるが、
このパターンでブックリポートは書く事になっている。)


時代と場所



主人公はだれか
外見、性格



メインキャラクターの紹介
外見、性格




主人公の抱えるconflict(対立・葛藤・問題)は何か






その解決方法は何か





結果





自分はこの本が好きか嫌いか





これらのポイントをきちんとつかんでいるかどうかで
評価されるのだ。


そして小学生くらいだと
レボートの表紙に絵などもかかせる。

そしてその絵も評価の対象になるのだ。





私はこのアメリカのブックリポート方式の方が
日本の「自由に書いてもよい」読書感想文よりも
本をきちんと理解するのにとても役立つと思う。




試しに
小学生になって先の「ごんぎつね」のブックリポートを作ってみると



むかし、田舎で




ごんぎつねが主人公
一人ぼっちのきつねでいたづら好きでも本当はやさしい


兵十
人間でやさしいでもお母さんがいなくなって一人ぼっちになった




兵十がおかあさんにあげようと思ってたうなぎをとっちゃって
わるいと思ったから、兵十におわびをして
兵十と仲良しになりたい。




兵十に栗を届ける





兵十に勘違いされて殺される





悲しいけど、このお話は好き




まあ、こんなにちゃんと答えられないかもしれないけれど、
少なくとも、蒲焼についての作文にならないことは確かだ。




その上
自分がどのように主人公の心情とシンクロできるのか
を主に問う日本の読書感想文より
話をより客観的に捉えて
問題点とその解決方法の障害をよく理解させることができると思う。



このような視点を育てることの方が
人生を渡って行くには大事なのではないだろうか。

Parley! Parley!

息子とパイレーツオブカリビアンの1から3まで3本続けて観た。

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド 2-Disc・スペシャル・エディション

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド 2-Disc・スペシャル・エディション

映画の中で
自分が窮地に陥った時に敵と交渉する単語として
「parley」が使われていた。
http://ejje.weblio.jp/content/parley


また
自分と敵方とほぼ同じような条件で交渉するときは
「bargain」が使われていた
http://ejje.weblio.jp/content/bargain


映画では
これらの交渉で決まった契約をベースに
話がどんどん進んでいくのであった。



この運びはアメリカが契約社会であること
その母体となる宗教が契約宗教であることを思い起こさせた。



こういう契約社会では
その契約をたえず読み直し、
解釈を新たにし、
常に更新をしていくためにも
相手に
たとえそれが神様であっても
きちんと意見を言えないといけないのである。



今年3月22日に
近くの街でトヨタ車の事故があったとき、
私はちょうど車でラジオを聞いていた。



その時に、
地元の警察が
「早くトヨタに事故を調べる人をよこせと言っているのだがまだ来ない」
トヨタは早くこないとダメだ。トヨタに対して
日本ではだれも文句をいう人はいないかもしれないが、
ここはアメリカなんだ。みな文句をいう。」
というようなことを言っていたのが印象深かった。


この事故では、運転している人が全くブレーキをかけた形跡もなくて
トヨタ車が暴走したわけでもなんでもなかったし
ただ事故を起こした人が言い掛かりをつけているだけだったんだが
警察が言っている意味はわかる。



とりあえず、文句(意見)は迅速に取り合わないといけない。
へ理屈のようなわけのわからない言い分でも
それを聞くことは大事なのだ。


そしてそれに対してちゃんとまっとうな意見を言い返すことができ、
相手を納得させることができると
その相手は
以外とあっさりと引き下がるようなことも多い。
やりあってた同士が握手したりさえするときもある。




「日本人は意見や文句を言わない」
アメリカでは認識されているんだなぁ
トヨタの事故ニュースで思った。
そして実際にそうだと思う。



アメリカに通算(断続的にですが)約8年ばかり住んでいて
謙虚な日本人ではなくなっている私でも
なかなか難しい。


文句(意見)を言うくらいまではどうにか
できるのだが、
そこから先の交渉が下手なのだ。




先日も日本人の友人と夕食をとった時に
ウエイターの人がシャンペンを抜いたときに、
私の友人にシャンペンをこぼしてしまった。
私たちはウェイターに「もっと注意深してほしい。」等と注意をした。
しかし、こぼれたのは少しだったから、まあしょうがないという気持ちだった。



そのことをアメリカ人の友人に言ったら、
「そしてあなたたちはそのシャンペン代は払った?
こんなに気分を害したから、もう払いたくないというべきだったわよ。」
というのである。





たまたま食事の話しになったけれど
一事が万事そのように進むといっていい。
多くのものについてなんでも交渉してみる価値があるのだ。



日本では考えられないもののひとつでいうと、
学校の成績ですら交渉の余地がある。
成績が渡されたあとに、
公式な成績になる前の期間があって、
「これはどうしてこんな点がついたんですか?」と
普通に聞くことができる。
そしてその答えに納得ができてもできなくても
「点をあげるために、何かできますか?
必ずするので、点をあげてください」とか
言って交渉することが可能である。
時には、「どうしても点をあげたい」
という熱意だけで条件なしにあげてくれることすらあるのだ。
子供の成績の場合は、
子供自身の交渉術のみならず
親の交渉術も関係するのだ。




日本では相手をお察しする文化が発達しているので
つい相手の気持ちや状況を察して
自分の主張をもとに交渉するのが難しい。
自分がちょっと我慢すればよいとか
次回に持ち越すことが多い。
それに
皆が皆、常に周りに対して気をつけているので
嫌なことが起こりにくいということもある。




私は日本のお察ししあう文化や
阿吽の呼吸でサービスしてもらえることを
素晴らしいし、いいなぁと思っている。


しかしそれにも落とし穴はある。
皆が少しずつ気を使って迷惑をかけないように
頑張っているから、
他人がが引き起こす面倒なことや
やっかいな状況に不寛容であることだ。
そして自分の失敗に対しても
不寛容である。


皆で思いやりを持つのは大切なことだが
でもそれが不明文化された
強制になると
なんだか息苦しく、窮屈だ。


皆で我慢大会をしているような
社会になってはいけないと思う。



それでも
このごろは
学校や教育委員会に怒鳴りこむ
モンスターペアレント
すぐ切れてお店で何かを怒鳴り散らしている
中高年の人を見かけるようになった。
(なぜか若者より中高年の方な気がする)



しかしあれは
ただ
「自分が大事に扱われていない」ということを
暴力的な言葉で訴えているだけで
交渉する態勢とまったく違っている。




私たちは日本人は
理想をいえば
お互いに思いやりながらも、
思いやりすぎない(?)ようにし、
相手や自分が引き起こす
迷惑に対して鷹揚にかまえつつ
時には正面から
意見を言ったり、言われたりして
他者とのやりとりの中で
自分が納得できる落ちどころを探すということ、
そんなことができるといいと思う。


そして
小学生時代から
交渉術を訓練してきた
百戦錬磨の世界の輩を
相手にも
負けない交渉術ぐらいは身につけたいものだ。





日常の中で
そんなに交渉ごとが少ない日本の社会では
とりあえず
手始めに
パイレーツオブカリビアンを観て、
「Parley!」「Bargain」
のやり方を参考にでもするってのは
どうかな。

京都望郷・青春彷徨・追悼梅棹忠男先生

京都で育った。
京都といっても、桂というところで
桂離宮の近くに家があった。
今も母と弟一家が住んでいる。

桂は京都の中では、湿地帯が多かった西の方で
都というには寂れたところだったらしい。
だから土地の人は
繁華街の烏丸や河原町に出るとことを
「京都にいく」などと言っていた。



私は桂中学から桂高校に進学した。
当時は蜷川共産府政で
「15の春は泣かせない」というスローガンのもと
その地区に住んでいる人はどんな学力であっても
みな桂高校に進学する仕組みになっていたのである。
中学の半分以上、3分の2くらいが桂高校に進学したように思う。


だから
とても頭の良い子と
私のようなそうでもない子が一緒だった。


桂高校はもともと農学校に普通科がくっついてできたので
農業科と園芸科そして家政科が併設されたいた。
校舎の裏には延々とと梨畑が続き
山羊がいて、田んぼもあって、葡萄畑もあった。



さらに当時の共産府政の方針で
普通科と職業科のミックスホームルームなる制度でクラス運営がされていた。
従って、普通の高校クラスのようなものはなく
授業は単位で動いたのでまるで大学のようであった。



ホームルームで一緒になった職業科の人達と親しくなった記憶はない。
彼等は私からみてもうすでに非常に大人びた人達であった。
高校入学の翌日、初めてのホームルームで
アフロヘアーをしてバーテンのような格好をした兄ちゃんが
地学の大人しそうな背の低い先生につかつかと歩み寄って
「おれ、やっぱ学校やめるわ」と言ったのを聞いて
あの人も生徒なのかと驚いた記憶がある。


家政科の女子と農業科の男子が裏の畑で熱烈なラブシーンをしているのを
ドキマギしながら片眼でみつつ側を通ったりした。


入った年になぜか甲子園に出場した。
その時は職業科の人達がリーダーシップを発揮して
チアリーダーをはじめとする応援団が即席でできたりした。
「すごいなぁ」と思った。
でも初戦敗退すると
あんなに頑張っていた職業科の人達がシンナーをやってラリってたりして
また「すごいなぁ」と思った。
もちろん、そんな子達だけでなかったはずだ。
真面目な生徒もいたと思う。



先生も半端なかった。


古典の先生はおかっぱの女の先生で新免先生とおっしゃり、宮本武蔵の親戚筋の方で
NHKの「私達の歴史」という番組で監修をされていた。
よくお宅に遊びにいって、コーヒーをご馳走になったのを覚えている。

数学の女の先生も凄かった。しばらく休講が続くと思ったら
南米にでかけていて、そこにボーイフレンドがいて結婚するとかしたとか
そんな話しで盛り上がったことを覚えている。

化学の高田先生はカラコルム登頂隊のえらいひとで
「なんで山登るねん」

なんで山登るねん―わが自伝的登山論 (河出文庫)

なんで山登るねん―わが自伝的登山論 (河出文庫)

を私が在学中に出版されベストセラーになった。
でも相変わらず飄々としておられた。

生物の先生はなんでも蜘蛛学会で有名な先生らしいが
家中蜘蛛だらけで先生があんまり蜘蛛ばかり相手にされるので
奥さんが逃げてしまわれたなどと不名誉な噂まで立てられていた。
テストつくるのも、成績つけるのも面倒くさいのか
甲状腺の大きさは?
1。そら豆大
2。ハンバーグ大
3。お好み焼き大」というテストで(今でも覚えてるものだ)
ほとんどの生徒によい成績をつけられていた。


先輩にも面白い人がいた。
「これから、日本は農業や」
と高校卒業と同時に北欧の牧場を目指して
旅立ったが、何か違うと思ったらしく
南下してヨーロッパを彷徨い
さらに南下してアフリカ大陸から陸続きで
アラビア半島、そしてインドへと来たあたりで
自然気胸を発症し、日本に帰還。
病院に入院している間に
「やはり日本はモノつくるんや」
と大学受験勉強を始めて翌年には京都大学に入学された。



桂高校は校則が「アロハ禁止」と「下駄禁止」だけだったと記憶している。
制服もない。
バイク置き場も沢山あって、バイク通学OKだった。
授業の合間に校外に出ることも普通だった。
スクーターに2人ノリして(本当はいけない)
遠くの喫茶店に行ったりした。
すると先生もいらしていて
「おい、授業に間に合う様に帰れよ」などおっしゃるのだった。
どうも学生運動が盛んだった学校のようで
生徒会館などには檄文が沢山書かれたままで汚かった。
その名残で生徒の職員会議立ち合い権まであった。
行使されなかったとおもうけど。




しかし自分と言えば
桂高校のような自由すぎる高校では
案外苦労していた。
勉強を全くする気になれなくなっていた。
かといって部活も面白くなかった。
本を読むだけが面白かった。
読書量という言葉があって
読書量だけは負けないという気持ちだった。
アッという間に3年生になった。
3年生の大晦日
桂川の土手を犬を連れて散歩している時に
「あかん、やっぱり大学にいかせてもらおう」
と大学受験を決心した。



お正月に先の京都大学の先輩に
「何も勉強してへんのですけど
大学受験をしようとおもうんですけど」
というと、
「あと、私立まで一ヶ月か。
ほな世界史と漢文だけやってみ。」
と勉強の仕方を教えてくれた。
寝ても覚めても勉強したら
どうにか私立で大学と名前のつく
女子大には合格した。


しかし私は3月に試験のある(まだ2期校とかがあった時代なのだ)
大阪外大、そこまで届かなかったら神戸市立外大を受験してみたかった。
そんな私に父は
「え〜、もうお金払うてしもたで。
女の子はそんな難しい勉強せんでええ。
それに大阪やら神戸やら遠いしあかんで」
というのである。もちろん、塾や予備校なども行かせてもらえない。



私はなんとなくこうして女子大生になってしまった。



京都というところは
えらい学者先生や
元気な学生さんを大事にする
古いものは大切に
新しいものは面白がる風土がある。





私は大して勉強しない大学生だったけれども
京都のそのような風土のおかげと
えらい学者先生が沢山身近にいはるという親近感から
また高校の化学の高田先生から
今西錦司先生の偉業をそのへんのおっさんの噂話のように
聞けたりしたせいか、
河合隼雄先生や梅棹忠男先生の本が自然と近くに感じられ、
相変わらず読書量だけは頑張って保っていた。




特に梅棹忠男先生は息子さんの梅棹エリオという方が
「熱気球イカロス5号」という本を出されていて

熱気球イカロス5号 (中公文庫 M 2)

熱気球イカロス5号 (中公文庫 M 2)

それを高校時代に共感的に読んだりしていたからか
立派な大先生を
近所の同級生のお父さん的に勝手に思っていた。


今の若い方は読んでないかもしれないけれど
「文明の生態史観」は面白かった。

文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)

梅棹先生が学術探検隊を率いて
実際にご自分で地球をあるいて
書かれた本だ。
日本てなんやねん?という先生の熱い気持ちが伝わってくる。

先生は他にも
京大方式のカードで有名な
「知的生産の技術」

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

今の情報社会を予見したような
「情報の文明学」
情報の文明学 (中公文庫)

情報の文明学 (中公文庫)

の代表的なご著書がある。


これらの本に向かうと
夫と結婚したことも
子供を3人産み育てたことも
すっかり忘れて
ただ一人の頼りない自分にまた出会ってしまう。


夫の実家のすぐ近くに
梅棹先生が館長をされていた民族博物館がある。
子供達を連れてよく通った。
モアイ像。ジプシーの馬車。
子供によって怖がったり、面白がったりするものが違った。

あんな面白い博物館は当時はあそこしかなかった。
今でいうとインタラクティブな博物館。


勝手に父のように慕っていた巨大な先生が
7月3日
お亡くなりになってしまった。


青春の迷子のような自分が
亡霊のように甦る。


梅棹先生にお会いしたことなどないけれど
お亡くなりになってとても悲しく寂しい。


ご冥福を祈ります。